【ポストコロナの学校改革⑨】学校は何を教えるところか
前回、私のブログに意見を寄せてくださった方の中から、「学校は何を教えるところか」という問題提起がありました。それに対する反応が「多様」であることに少し驚きました。
「教科を教えるところだ」
「いや勉強ではなく人間性を育てるところだ」
というようにです。
私は、ここまで「ポストコロナ」について述べながら「学校は何を教えるところか」という共通理解はできているものだと思っていました。
日本ではこのように議論の土台が共通しているという「幻想」のもとに議論が進むことがよくあります。以前のブログでも指摘しましたが「空気」を読むことで、擦り合わせをせずに衝突を回避しながら効率よく結論を出そうとする風土があるからだと思います。
私の答えは極めてシンプルです。それは
「学習指導要領に示された内容を教える」
です。(私の所属団体のことをよく知る方は少々驚かれるかもしれません。苦笑)
例えば、学習指導要領に示された小学校の国語の目標は次の通りです。
言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 日常生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。
(2) 日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う。
(3) 言葉がもつよさを認識するとともに,言語感覚を養い,国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。
シンプルにまとめられています。そもそも学校教育でめざすものは「学力向上」ではないことが分かっていただけると思います。
このように各教科、道徳、特別活動それぞれに目標が定められており、どれも子どもたちが日常生活を豊かに送れるようにすることがねらいです。
この学習指導要領は、さらに上位の目標である「学校教育目標」をもとに作られています。そこには「学校は何を教えるところか」が整理して示されています。
第18条 学校教育の目標
1 学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。
2 郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
3 日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
4 日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
5 日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
6 日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
7 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
8 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
さらに上位の目標は、教育基本法になります。(2003年に残念な改正が行われましたが今はそれは置いておきます。)
教育基本法には第1条に「教育の目的」が示されています。
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
この「人格の完成」は学校教育だけで目指すものではなく、幼児教育から始まる生涯学習の中で、あらゆる場所、あらゆる機会に育成していくものです。学校教育だけで「人格の完成」をさせなければいけないと、行事や部活動をどんどん詰め込む考え方をする人がいますが、無理があります。
前回のブログでも述べたように、学校以外でも、様々な機会、様々な場所、たくさんの大人の目で子どもたちを育てていくことがコロナ後の社会では必要だと思います。
この教育基本法よりさらに上位の目標は、日本国憲法になります。
日本国憲法の基本理念は、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義です。
この基本理念が目指すさらに上位の目標はどこにも書かれていませんが、それは「だれもが幸せになること」であることは自明です。
言い換えれば、学校教育は「だれもが幸せになれる社会を作る人を育てる」ための営みだと言えます。それを言い換えたのが教育基本法の「平和で民主的な国家及び社会の形成者」であると私は解釈しています。(決して国家主義的な意味ではなく)
本当は学習指導要領どおりに子どもたちに教育をすすめていけば、この上位目標に到達するはずなのです。(もちろん、学習指導要領は完璧ではないどころか、上位目標と矛盾する要素をもっていることも確かです。)
しかし、教育は「感情が制度を上回る」ために、さまざまな恣意的な変更が行われ、そこに歪みが生まれます。
歪みを生む一つは、このブログで繰り返し述べている「子どもの問題行動対応への困難さ」です。学習指導要領の内容を教える以前に子どもたちを席に着かせ、トラブルなく学習を進めようとするところで上位目標が見えにくくなります。同調圧力や時には理不尽なルールで子どもを統制してしまい、望ましい社会性や自主性、自律性を抑制してしまいます。
もう一つ上位目標を忘れさせてしまうものに「競争」があります。テスト、通知表をはじめとする評価、子どもたちを輝かせようとするコンクールや大会、表彰、義務教育の最後に待ち構えている高校受験。競争原理を使って上へ上へと子どもたちを伸ばそうとする方法です。「切磋琢磨」と言えば聞こえはよいですが、学校に競争が入ると部活動や全国学力・学習状況調査のようにおかしな過熱が発生します。
「上へ上へ」のモチベーションを支えているのは、「勉強ができれば幸せになれる」という文脈です。しかし、ここに大きな落とし穴があります。
それは、「自分だけが幸せになろうとすると自分も幸せになれない」という社会のパラドックスです。競争は格差を生み、格差は分断を生み、最後は孤立をもたらすからです。学校は表向きは協力で成り立つ社会を謳いながらも、奥深いところで格差を是認しています。
そして「勉強ができれば幸せになれる」は、裏返せば「幸せになれないのは勉強しなかったあなたが悪い」という自己責任論の強化です。今の日本はうっかり足を滑らせると、どこまでも落ちていき這い上がることのできない「すべり台社会」とも揶揄されます。
2020年、世界156カ国を対象にした「幸福度」の調査結果では、日本は前年より4つ順位を下げ62位でした。最近では、「日本の子どもの『精神的な幸福度』が最下位から2番目の37位だった」というニュースもありました。
もちろん、この数字を鵜呑みにするわけではありませんが、これほど学力が高く、治安もよい社会を作りながら、やはりどこか閉塞感に包まれている社会になっています。この事実に私たちは本気で向き合わなければいけないのではないでしょうか。
教員は今、大変多忙な中で仕事をしています。しかし、その大量の業務の中には、「誰もが幸せになれる社会」とは逆ベクトルのものもあります。そういうマイナスの業務をまず止め、ゆとりのある豊かな教育を実現することが必要です。こんなに一生懸命やっているのに、不幸な社会を作る手助けをしていたとすれば悲しすぎます。
教員、保護者、教育関係者だけでなく、社会全体でこれからの日本のあり方を考えていかなければいけません。コロナがそのきっかけを与えてくれているのだと私は思います。
最後におまけです。下の写真は小学校の各教科の学習指導要領解説です。手前が主として人間形成に関わる道徳、特別活動。奥は教科教育の、国語、社会、算数、理科、生活科、体育、音楽、図画工作、家庭科、外国語・外国語活動、総合的な学習の時間。もし、「学校は教科を教えるところか、人間形成をするところか」と聞かれれば、私は「9対1で教科教育」と答えます(もちろん冗談です)。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を
【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか
【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜
【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜
私と同じ「ポストコロナの学校」の姿を考えている組織があります。「中央教育審議会初等中等教育分科会」いわゆる「中教審」です。(私と一緒のレベルで紹介してはいけませんね。失礼しました。)
10月7日に「中間まとめ」が発出されています。
「令和の日本型学校教育」の構築を目指して 〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現〜(中間まとめ)
題名にある「令和の日本型学校教育」という言葉に嫌な予感がしながらも若干の期待をもって読み始めました。全72ページ。「まとめ」というより論文です。
そこには「学力格差」「自ら課題を見つけ、それを解決する力」が育てられていないこと、「同調圧力」、「生徒指導上の課題」の増加など、私がここまで主張してきたことと重なる部分も多いのですが、やはり、核心部分では相入れませんでした。
特に、「令和の日本型学校教育」の定義(P5、P18)に驚かされました。
①学習機会と学力の保障
②社会の形成者としての全人的な発達・成長の保障
③安心・安全な居場所・セーフティネットとしての身体的、精神的な健康の保障
従来型の「日本型学校教育」の定義は、①と②だけであったのに、③が付加されています。表記上は「再認識された」、つまり元々あったという口ぶりですが、明らかに付加されています。
この記述のすぐ下(同じP18)には、「学校現場に対して新しい業務を次から次へと付加するという姿勢であってはならない」と書いてあり、これほど見事な「二枚舌」を行政文書で見ることはそうないでしょう。
この③が付加されたのは、コロナを通して「保護者が仕事に行く間、子どもたちを預かる機能」「すべての子どもに昼食を与える機能」「虐待する親から一定時間引き離す機能」などが学校にあったことが明らかになったからです。
ここで示された「日本型学校教育」の強化は非常に危険です。
なぜなら機能を一極集中させることは、センターがダウンした時に、すべての機能が停止するからです。私たちはコロナでその危うさを学んだはずではないでしょうか。
まず、学校に教育機能を集中させていたために、コロナで子どもの学習が停止してしまいました。
もしも、普段から保護者に一定程度の家庭学習の責任と役割が与えられていたら、コロナ下でも子どもの学習がすすんだかもしれません。
また長期休業の間、虐待を受けている子の安否が危惧されました。これも学校の力ではどうにもできませんでした。電話で声を聞くのが精一杯です。
政府は子どもの貧困対策として学校を「プラットフォーム」とする大綱を2014年に掲げていますが、コロナ下では当然これも機能しませんでした。
つまり、コロナを契機に私たちが考えなければいけないのは、学校の機能が停止しても子どもたちを守り育てることのできるリスク分散をした環境です。
そもそも、これからの時代、学校への一極集中自体が不可能になっていきます。
理由は、「一人一台端末」が今年の冬にも全国の小中学校で実現するからです。
まず今年度内に、不登校の子どもたちや入院中の子どもたちへの授業配信が始まります。これは、授業をする教員の前にコンピュータやタブレットを置き、テレビ電話でつなぐだけで瞬時に成立します。すでに出席の要件として認められていますし、逆に、これが始まらなかったら学校が学びの保障を怠っているという大問題です。
次に起こるのが、「我慢して学校に行っていた」子らが、家庭での学習を希望するという事態です。特に、勉強はしたいけれど、同調圧力が苦手な子どもたちなどが学校を離れる可能性があります。
荒れが激しい教室では、落ち着いて勉強したい子が、家庭での学習を希望するかもしれません。教室で勉強するのは、アンチリーダーのグループだけといった様相になることも想像されます。
また、友達に暴力をふるったり、施設を壊したりするような子どもに対して、これまで「出席停止」という方法はなかなか取れませんでしたが、保護者との相談の上で家庭で授業を受けるという選択も考えられます。
次に起こりうるのが、友達の家や公共施設で数人が一緒にリモート授業を受けるというスタイルです。教室の荒れや同調圧力の息苦しさから逃れてきた子は、友達と一緒に過ごす権利までは奪われたくないため、このようなスタイルを望むと思われます。
専業主婦や高齢者が、これらの子どもを見守るような新たな職が生まれる可能性もあります。学習塾がサービスを付加しながらその場を提供する可能性もあります。
また、いくつもの民間の学習ソフトが、基礎的な内容であれば一人でも学べるコンテンツを開発しています。自分に合ったペースで学べるため、短い時間で習熟できることがすでに証明されています。
これからは「学校でみんなと」「友達と数人で」「一人で」という学習スタイルを子どもが選べる時代になります。
果たしてこれがどのようなスピードで進行するかは分かりません。しかし、自然災害や感染症の流行などに伴って全員が家庭で授業を受けるという事態も発生するでしょう。これが一定程度続くと「勉強は学校でする」という概念は崩壊し「家でも勉強できる」意識が定着します。
意識改革の「飽和点」はそれほど遠くないように思います。
子どもたちがバラバラになった時点で、「令和の日本型学校教育」の②全人的な発達・成長の保障は、学校から切り離されていきます。例えば、学習は一人で家でするけど、その後、地域スポーツクラブでいろいろな人と交流する中で社会性を身につけるという子も想定されます。このような分散型の教育機会こそが、本来、教育基本法が目指す教育のあり方です。
“第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。“
当然、さまざまな問題が発生します。家でやると言って勉強をしない子も出てくるでしょう。それを支えるのは保護者の役割にしていかなければいけません。教員は授業中は一人一人の子どもを見て回る机間指導をしますが「家間指導」は不可能です。
余裕がなく支えきれない保護者や力で押さえつけようとする保護者もいるでしょう。
そこで学校が今までのようにおせっかいになりすぎると、教員が保護者の教育までしなければいけなくなります。ここまでのブログでも述べてきたように、そこで手を出すことによって、家庭の教育力、地域の教育力、行政の支援制度を弱めてきたという反省を忘れてはいけません。
今、早急に整備・強化すべきは、保護者を支える行政の機能だと思います。これは、学校がプラットフォームになっている現在でも追いついていないくらいです。(ただ、こちらも人員不足に苦しんでいるということは承知しながらあえて無茶振りをしています。)
「中間まとめ」で示された「令和の日本型学校教育」の③安心・安全な居場所・セーフティネットとしての身体的、精神的な健康の保障はそもそも学校以外の行政の役割です。
今まで子どもたちを一か所に集めることで、子どもたちが起こす事件は学校の中だけで処理されてきましたが、これからは、子どもたちが世に放たれるわけですから、警察も忙しくなるでしょう。
当然、学校には関係各所から強力な協力要請があるでしょう。しかし、ここで一定程度の線引きができないと子どもたちが豊かに学び育つ社会にはなりません。今必要なのは、家庭、地域、行政が「当事者意識」をもつことであり、コロナがその大いなる契機となります。
②、③を切り離しながら、教員は①学習機会と学力の保障に特化できる環境をつくっていかなければいけません。それは②全人的な発達・成長の保障を否定するものではなく、①を行う中でできる範囲での役割になります。
①学習機会と学力の保障について「中間まとめ」が示す姿は、対面とオンラインのハイブリッド、「個別最適な学び」と「協働的な学び」です。これは明治に始まった近代教育の中で最大の転換となるでしょう。
「中間まとめ」は、これらの転換がICTの発達によってたやすく成立するような口調ですが、具体的な部分は何ら示されていません。もしかしたら、文部科学省お得意の「学校丸投げ」バックドロップがまた炸裂するかもしれません。
ただ、新しい学びのスタイルを構築していく作業は私には「ワクワク」する類のものです。対面とオンラインのハイブリッドに耐えうる教材の開発。しかも、「与える」から「自ら学ぶ」への転換、活用力の育成という大命題があります。このような教員本来のクリエイティブな仕事に戻るためにも、学校の働き方改革の推進と本来業務に集中できる環境の構築が望まれます。
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【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか
子どもたちに「自ら学ぶ力」がついていないことを突きつけたのは、コロナの長期休業でした。休校の間、自分の興味や関心のあることについて勉強をすすめることができたのはごく一部の子どもたちだけでした。平成の教育が目指してきたのは、自ら学び、自ら考える子であったはずなのに、結果は「惨敗」と言ってもよいでしょう。
これについては「総合的な学習の時間」(以下「総合」)の中で、探求する力を育ててこれなかった学校教育に責任を求める声もありました。
しかし、学校で探求力をつけることは容易なことではありません。
例えば、5年生を対象に「米」というテーマで探求型の学習をしたとします。
「世界にはどんな米があるか調べたい」
「お米のおいしい炊き方を調べたい」
「稲の生長について調べたい」
「稲作農家の仕事について調べたい」
などのテーマが生まれ、一人一人が自分の課題を決めたとします。(実はそこまでいくのも簡単ではないのですが行けたとします)
まず図書室に行って、本を探してみるもののそれに合致する本にたどり着けることは稀です。
次に図書館に行ったとして、司書の方にお願いすれば、かなりの確率で本を手にすることができます。しかし多くの場合、子どもには理解できない高度な内容の本が届くことになります。
コンピュータ室でインターネットから情報を得ようとしても、検索ワードで絞り込む経験のない子どもたちはなかなか目的の情報にたどり着けませんし、ようやくたどり着いたとしても子どもの読解力に合わない情報が圧倒的です。
そこで発生するのが「1時間、何も成果がなく終わった」という厳しい現実です。そうならないためには教員の相当な下準備が必要になります。事前に図書館から関連した本を取り寄せておいたり、コンピュータに適当なサイトのリンクを貼っておいたりします。これを何十人の子どもたちに対応してやらなければいけません。一方でそれをがんばればがんばるほど、問題解決で育てたい大事な部分を子どもたちから奪ってしまうというパラドックスです。
例えば、子どもが親に「〇〇について研究したい」と言った時に、親が子どもの探究力を育てるためにどれだけの時間をかけて寄り添わなければいけないかと想像すれば、それを同時に何十人に対応することが極めて困難なことはご理解いただけると思います。
「自ら学ぶ力」を高めるためは、まず子どもの興味・関心に寄り添うところからスタートしなければいけません。多人数への一斉指導を基本とする日本の学校教育とはそもそも相入れません。結果として、教員の敷いたレールの上で探究をすすめるような設定にせざるを得ないのです。
さて、そのような中、今こそ注目してほしいと思うのがプロジェクト型学習です。
プロジェクト型学習とは、最終ゴールを設定し、その実現に向けて発生した課題を解決する学習方法で、平成12年に「総合」が始まった時から、一つの方法として確立されています。最近はPBL(project based learning)という呼び方でも注目されています。
私が実際にやってみたプロジェクト型学習に「縄文キャンプをしよう」(小学校6年生)というものがあります。子どもたちは「家づくり」「火起こし」「料理」「土器づくり」のグループに分かれ、一泊のキャンプに向けて準備をしました。3か月ほどの準備期間を経て、自分たちで作ったわらぶきの家に一泊するという経験をしました。自作の手回し火起こし器による着火は残念ながらできませんでしたが、自分たちで川で手づかみした魚を民族資料館でもらった黒曜石でさばいて焼いて食べ、校庭から掘り出した粘土で実際に焼いた土器で水を飲みました。もちろんここまで行くには、担任のかなりのサポートが必要でした。授業を行うために4グループ分の準備が必要でしたし、自分自身が勉強する必要もありました。2時間続きの総合の時間の間、子どもたちがグループで分かれている教室、図工室、理科室、図書室などを行ったり来たりしました。学習に空白が生じてしまうこともありましたし、グループで意見が合わず険悪な雰囲気になっていることもありました。しかし、子どもたちの学びの手応えは確実にありましたし、最後に一泊できたという達成感は何にもかえがたかったです。
実はこのプロジェクト型学習は低学年でも可能です。生活科で「お祭りをしよう」という学習があります。魚釣り、迷路、色ぬり、ボーリングなどのいろいろなお店を作って、2年生が1年生を招待するのです。これも子どもたちが主体となった学びが展開されます。
最近、ニュースで見たのは、福井の中学校3年生が例年通りの県外の修学旅行に行けなくなったために、自分たちで一から計画して、県内の修学旅行を行ったという実践でした。そこには、コロナ感染を防ぐために専門家から意見を聞き、バーベキューを断念する姿がありました。子どもたちが作り上げたコースは、100m走で桐生選手が9.98秒を叩き出した「9.98スタジアム」でのリレーから始まり、福井県内の観光スポットをグループに分かれて巡り、県内の温泉旅館で1泊するというものでした。画面に映し出された子どもたちの笑顔は、従来型の修学旅行では見られない輝きをまとっていました。
このようなプロジェクト型の学習がなかなか行われない背景には、学習指導要領で教える内容の増加があることは否定できないと思います。
一時期、強い批判を受けた「ゆとり教育」ですが、実はPISAの学力調査の結果をよく分析すると「ゆとり教育」を長く受けていた年代の方が、活用力の指標である「読解力」において優秀である傾向が明らかです。
この読解力は直近のPISA2018で15位(前回8位)と大きく後退しました。このPISA2018の対象となった昨年の高校1年生は義務教育の9年間のうち7年間を「脱ゆとり」の平成20年学習指導要領で学んでいます。移行期間も合わせると9年間丸々「脱ゆとり」教育を受けてきた子らです。
この間、教壇に立ってきた身とすれば、教えることが多すぎて、「いかにこなすか」に腐心させられた厄介な指導要領です。
令和2年度から小学校で運用されている平成30年度学習指導要領はさらに教える内容を増やしました。このままでいけば「生きる力」を伸ばすことはさらに難しくなるでしょう。文部科学省は「主体的、対話的で深い学び」を推進すれば、内容が増えても活用力は育つという論をゴリ押ししています。前回の平成20年学習指導要領では「言語活動の充実」がスローガンでした。これが失敗したことはPISA2018の結果からも明らかです。
プロジェクト型学習のよさは、ゴールに向けて何をしなければいけないかを考えた瞬間から、子どもが学びの主体者になることです。またそこには他者との協力や対話、折り合いをつける体験などが自然に発生します。これは今後社会で求められる「付加価値を生み出す力」に直結するものだと思います。
しかし、前述の「縄文キャンプをしよう」で紹介したように、教員の負担は小さくありません。
学習指導要領で定められた教える内容が多すぎることも、教員が授業準備の時間がないくらい多忙なことも、導入の足を引っ張る大きな要因です。
つまり、プロジェクト型学習が効果的だとしても、それは、学校の働き方改革やカリキュラムの見直しと同時にすすめていかなければ実現は難しいということになります。
また、仮に導入の条件が整ったとしても、これらの学習が「学びの格差を生まないか」「誰一人取り残すことなく学べるか」「自己責任論を強化しないか」「同調圧力が学びを阻害していないか」などの点検は必要です。
ちなみに、このプロジェクト型学習は「総合」に限らず、様々な教科で実践が可能です。私がこれまでに実践した例を紹介します。
国語「スーホの白い馬」(小2)
「病院のおじいちゃんおばあちゃんに朗読を聞かせよう」という課題で、心をこめた音読練習を重ね、病院の待合スペースで入院中のお年寄りに音読発表をしました。涙を見せるお年寄りの姿に子どもたちは強い手応えを感じていました。この実践をして驚いたのは、市販のテストで、一人が95点だった以外は100点だったことです。音読以外何も勉強していなかったのですが、実生活と結びつくことで、力強い学びが発生していることを実感しました。
社会科「スーパーマーケット」(小3)
大阪屋という学校の隣のスーパーマーケットに見学に行った際に、店長さんに「大阪屋がもっとお客さんに喜ばれるようなアイデアを私にください」と言ってもらいました(もちろん事前の仕込みです)。子どもたちは他店との値段の比較や品質のチェックなどをして、アイデアをまとめていきました。保護者の話では、家に帰ってからも大阪屋のチラシを眺めながら「もっといいスーパーになるにはどうしたらいいかなあ」と考えていた子もいたそうです。
このように、学びを子どもたちにシフトすることで、パワフルな推進力が生まれることを実感できます。ウェブで調べればもっと素晴らしいいくつもの実践があると思います。
さて、このような学習を繰り返したとしても、長期の休校の中で、自ら学べる子どもに育てられるという保証はありません。しかし、子どもたちに「与えて」「与えて」「与えて」「与えて」「与えて」の学習では、未来を生きる子どもたちが必要とする力はつけられないこともまた自明です。
保護者にも意識改革が必要です。本来、家庭学習は学校ではなく保護者の守備範囲です。保護者も学校から与えられることに慣れ過ぎて、「自ら考え」子育てをすることから逃げていないでしょうか。
全体が「主体者」となるような改革の中で、自ら学ぶ子どもたちが育つことを期待します。
ポストコロナの学校改革は「部分」を変えるマイナーチェンジではく、大きな目標に向けて全体を変えていくフルモデルチェンジになります。今回は極めて部分的な「プロジェクト型学習」について述べましたが、私はこれが学校の心臓部分にかなり近いのではないかと思っています。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を
【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか
【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜
【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる
今回は視点を変えて教科指導について話をすすめます。
「詰め込み教育」という言葉を聞いたことがあると思います。それに対する「思考力の育成」「自ら学び自ら考える力」「生きる力」は、知識偏重のアンチテーゼとして、昭和の終わりから事あるごとに叫ばれ続けてきました。
しかし平成の30年間、学校教育はこれに対する具体的な手立てをほとんど何も確立できないままここまで来てしまいました。
学校は何を研究してきたのか
日本の教員は「研究授業」と言って、お互いの授業を参観することによる研修をすすめており、これは世界的に見ても評価が高いと言われています。教員はこの研究授業に大変な労力を注ぎ込みます。
多くの教員は、子どもたちが元気よく手を挙げたり、積極的に発言したり、意見を交わし合ったり、深く思考したりする授業を「いい授業」として思い描きます。しかし、何度も言ってきたように学校は子どもに対する強制力がありませんから、席に着かないような子さえいます。まず、席に着かせる。教科書とノートを机上に出させる。教科書とノートを開かせるというところから始まります。ようやく学習が始まっても、私語があれば注意をし、話を聞いていない子がいれば声をかけ、作業が止まっている子がいれば教えに行き・・・と完全なマルチタスク、何度も言ってきた「生徒指導&教科指導のアクロバット」です。
仮に、子どもたちがきちんと席に着き、ノートを開いて、学習の体勢に入ったとしても、今度は、子どもたちはなかなか手を挙げません。これは当たり前のことで、強制力がない中で、子どもたちを席に着かせる時に最も有効なのは「空気」(同調圧力)です。同調圧力がかかった中で、今度は逆に「みんなと違うことをしろ」という逆ベクトルを要求しているのですから、そんなに簡単に子どもたちは動いてくれません。
研究授業をする時は、授業の計画書である「学習指導案」を書くのが慣例となっています。これは、授業のねらい、子どもたちの状況、1時間の授業の詳細な計画などをA4用紙で数枚にまとめるものです。あるベテランの先生が一つの学習指導案を書くのにかかった時間を記録してもらいました。指導案の協議も含め、実に20時間かかっていました。たった45分の授業をするのに20時間ですから恐るべき「逆」費用対効果です。
研究授業の後には、事後の協議会が行われますが、そこで話題になるのは、「子どもが積極的に手を挙げていてすばらしい」とか「黒板の書き方が分かりやすい」「子どもたちが生き生きと学んでいた」「指導者がこんなふうに問いかければもっと子どもたちの考えが広がった」などの表面的なことばかりで、子ども一人一人の中にどんな学びがあったかということがなかなか協議されません。
普通に考えれば、「目標とする力をつけたのは誰と誰と誰か」「つけられなかったのは誰と誰と誰か」「力がついたのは、教員のどのような手立てが有効だったからか」「力がつかなかったのはどのような手立てがたりなかったからか」ということが問題にされないとおかしいと思いますが、協議の話題はなかなかそうはなりません。目標への到達についてあまり強く言うと「ここは工場ではない」などの批判を受けるので、遠回しに促す程度にしますが、時間をかけて熱心にやっている割には、大きな穴の空いたバケツで水を汲んでいるような作業になってしまっています。
なぜこんなおかしなことになるかと言うと、やはり「生徒指導&教科指導のアクロバット」に戻ります。もし、すべての子どもたちが行儀よく、全力で学習に向かうのがデフォルトであったなら、協議会は、一人一人の子どもにどのような力をつけたかに目を向けざるを得ません。しかし、子どもたちの意欲も態度もまちまちな中で、まず学びのスタートラインにつくことが「大仕事」になってしまいます。「私語をしない」「手を挙げる」「発言をする」「友達の意見を聞いている」「言われた通り活動している」あたりが授業成立の最低条件です。それらをクリアした上で、「子どもが生き生きと活動している」「子どもの発言が知的」「友達と関わり合っている」「指導者の黒板が見やすい」「誰もが学習に参加している」というような「姿」を具現化することが最大の関心になってしまうのです。つまり、何度も言うように、 「生徒指導&教科指導のアクロバット」の中で「高度なアクロバット」を見せることが目的になってしまっています。そして、それができる人が次のリーダーになることで、「アクロバット」が永遠のテーマになり、本質的な部分がますます見失われるという悪循環です。
かなり乱暴な言い方をすれば、授業の目的は「子どもたちにねらいとする力をつけること」ですから、寝転がっている子がいても、教室から逃げていく子がいても、お絵かきしている子がいても、最後に全員にねらいとする力がついていればいいのです。
授業を成立させるために同調圧力を高め、ちゃんと勉強はしているけど、どのような力がついているかについては目をつむる研究では日本の未来は危ういです。
なぜこれが問題にならないかというと、日本の社会も平成の30年間で進化できなかったからです。つまり、同調圧力に与し、言われたことを正確に遂行する人材がまだまだ企業で使えるからです。しかも、自分で考えることをあまりしないので、反抗したり、集団で反対運動を展開したりしない使い勝手のよい人材です。
今後、企業はAIとロボットを徐々に導入し、従来型の人間を解雇していくことでしょう。流されている川の向こうに滝があっても、ゆったり流れているうちは気づきません。今、滝に向かって少しずつスピードが上がっているところです。
学校教育は「企業のための人材育成」をする場ではありませんが、一人一人が幸せになるという視点から考えれば、自己実現のための力をつけることは大いにすすめられなければいけません。そして、そのための力は文部科学省の言い方を借りれば「思考力、判断力、表現力」に裏打ちされた「生きる力」であり、企業側からの言い方をすれば「付加価値を生み出せる力」です。
「生きる力」をどうやって育てるのか
では、どうすれば「生きる力」「付加価値を生み出せる力」がつくのでしょう。この基本的な問題に対して、学校は悲しいくらいにノープランです。知識・技能であれば「反復」で育てられます。思考力を育てる一つの方法として「応用問題を解く」という例を考えます。教員が応用問題を出した時に、解ける子と解けない子がいます。自力で解決した子は、「思考力が備わっていた」もしくは「思考力が育った」と解釈できます。では、解けない子に対してどう指導すればよいでしょう。やり方を教えてしまった時点でそれは思考力から「技能」へと質を変えます。同様のパターンの問題を得意の「反復」で練習すれば、自力で解けた子と教えてもらって解けた子の差は見えなくなります。しかし、「思考力」という尺度で見れば、二者の間には相当な違いがあります。
これは私の自説ですが、思考力については「自力解決」が生命線です。自力解決までのトライ&エラーが思考力を高めるというのが私の解釈です。一方で、基礎を確実に積み上げれば応用力や思考力が育つという解釈もあるかもしれません。どちらが、合っているか間違っているかということより、こういうことを学校がこれまで全く研究してこなかったということが問題ではないでしょうか。
自力解決は、1単位が45分、50分の授業時間と極めて相性が悪いです。教員はできる子の解法をできない子に広めることで役割を終えたつもりでいますが、思考力を高めたのは「できる子」だけです。生まれながらにもっている力が高い子だけが伸びる指導では公教育の役割を果たしていません。ここで発生した知の格差は、その後の収入の格差と直結します。格差社会は学校が生み出していると言っても過言ではないと思います。
「学び合い」「主体的・対話的で深い学び」がまるで教育の最先端のような言い方をされていますが、グループの中の子どもたちの様子を観察すると、できる子からできない子への知識伝達の場で終わっていることは多々あります。できない子にとっては、教員から教えられるか、子どもから教えられるかの違いでしかありません。また、子ども同士の対話による課題解決を大いに困難にしているのが、同調圧力による統制です。グループで話をしていても「何となくみんなが賛成している」とか「かしこい人に従っていれば安全」という判断しかできないように子どもたちを育ててしまっているので、対話が成立しません。
私が【ポストコロナの学校改革】①〜⑤で繰り返して述べてきた、「秩序維持の脆弱性」「教員に求められるオールラウンド性」、そこから派生する「空気」(同調圧力)による統制と言った、教育制度の「ボトルネック」が教科指導にも及んでいます。
私は、まず従来型の「生徒指導&教科指導のアクロバット」研究授業はコロナを機会にすっぱりやめなければいけないと思います。理由は簡単です。これからは学ぶ場所は教室に限らないからです。リモートで授業を受ける子どもは、寝転がっていようが、漫画を読んでいようが、教室から懲戒を加えることはできません。同調圧力で縛ることもできません。教員にできることは、子どもたちの知的な欲求を刺激し、タブレットの前に子どもを引きつけ、一人ひとりの力を伸ばすにはどうすればよいかという学びへの特化です。特に思考力や表現力を高めるにはどうすればいいのかという昭和からの宿題に正面から向き合う時です。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を
【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか
【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜
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【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任
前回、【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質で述べたように、学校は内外の圧力によって、抱えきれないほどの業務と責任を背負うことになりました。
特に私がこの30年間の「痛恨の一打」と思うのが、保護者の監督責任を学校が丸抱えしてしまったことです。
民法712条、714条をご存知でしょうか。(念のため条文をそのまま掲載しておきます。下線、筆者)
第712条【責任能力】
未成年者は、他人に損害を加えた場合において、自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていなかったときは、その行為について賠償の責任を負わない。
第714条【責任無能力者の監督義務者等の責任】
① 前2条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
② 監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者も、前項の責任を負う。
簡単に言えば、「子どもがお店の物を壊したら親が弁償する」という法律です。
少なくとも昭和においては、学校での問題行動は保護者が責任をもつ意識がもっと高かったです。例えば、学校でガラスを割れば保護者が弁償したり、友達にケガをさせたら菓子箱をもって保護者が謝罪に行ったりというようにです。
確かに、教員(民法714条②の監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者)にも責任は発生するのですが、それは主として授業時間を中心とした学校の教育活動場面が対象となります。
最近は、子どもが学校で起こした問題は、すべて学校の責任という見方が強くなっています。特に、学校でいじめや暴力があった場合、学校の安全配慮義務と代理監督義務が強く問われるようになりました。いじめ事故が生じた時に、報道カメラに向かって深々と頭を下げる管理職や教育委員会の姿がその誤解を定着させているようにも思えます。
そもそも学校が適切な指導を繰り返しているにもかかわらず、いじめや暴力行為、破壊行為をしたら(状況にもよりますが)それは保護者の責任となって然るべきです。実際、判例でも「児童・生徒による加害行為が行われた場合には、学校の責任と保護者の責任との両方が認められる場合と、学校の責任を否定しつつも保護者の責任が認められる場合とが多数を占めている」(2016「学校と法」坂田仰)とのことです。
民法の効力は昔も今も変わっていないので、裁判になれば、保護者の責任は免れないのですが、裁判以前の段階では「すべて」学校に責任があると言ってもおかしくないくらいの傾き方です。家に帰ってからのスマホトラブルでさえ、学校で調査、指導を求められるほどです。
この原因は、学校内部にもあります。学校のサービス業化に伴って、自虐的と言えるほど、責任を教員自らに向ける考え方が定着していきました。私自身も、子どもたちのトラブルがあった場合は、学校で加害児童から被害児童に謝罪をさせ、双方の保護者に連絡をし、特に被害児童の保護者には「学校の指導が十分でなく申し訳ありませんでした。」と謝罪をするのが当たり前になっています。もちろん、怪我をさせたり、物を壊したりと明らかな損害が発生している場合には、加害児童の保護者から謝罪や弁償を促します。(これらの対応は地域によっても異なるかもしれません)
先生方に「いじめの責任は誰にあると思いますか」と聞くと、誰もが「担任」「学校」と答えます。「いや。学校がきちんと指導していれば責任は保護者ですよ」と言うと、みんな驚きます。「知らなかった」と言います。
そもそも教育基本法には「第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」とあります。責任は明確に保護者に位置づけられているのです。
最近では、我が子が教室で暴れても「子どもとの人間関係を作れなかった学校の責任だ」と子どもへの働きかけを拒否したり、我が子が人に怪我をさせても「私は謝りに行きません」と突っぱねたりと、保護者としての役割を放棄したかのような姿が散見されます。(極めてごく一部の保護者です)
家庭学習についても学校の役割が高まっています。保護者の定番の要求は、「先生、うちの子家に帰ってもゲームばかりしているのでもっと宿題を出してください。」です。こんなふうに言われると、「ゲームを買ったのはご両親じゃないですか」と言いたくなりますが、ぐっとこらえます。子どもにもっと勉強してほしいと思うなら、問題集を買ってきて、横について一緒にやればいいのですが、嫌がる子どもをしつけることは時間も手間もかかります。コロナ禍でも、「プリントしか出さない」「プリントすら出さない」学校に静かな批判が起こりました。
昔の保護者は子どもに「勉強しなさい」と自主学習を命じましたが、今の保護者は「宿題したの」です。「勉強しなさい」と言っても「何すればいいの」と聞かれたら答えられません。そうなると「宿題」という強制力に頼るしかありません。ある6年生の保護者は担任に「中学校に行くと課題がたくさん出て、小学校のうちに家で勉強する力がついていないとついていけなくなるんです。中学校で落ちこぼれたら先生のせいですからね」と迫ったそうです。
確かに、学習指導要領には「家庭との連携を図りながら,児童の学習習慣が確立するよう配慮すること」と示してあります。この文言は「脱ゆとり」に舵を切り替えた、平成20年度学習指導要領から追加されました。しかし、家庭で過ごす時間の主体は、あくまで保護者と子どもであり、そこに学校の指導を持ち込むのは「治外法権」です。「家庭との連携を図りながら」「配慮する」という遠回しな言い方になっているのはそのためでしょう。担任は、宿題を出さなくても、保護者に「教科書の計算問題を家でもやってみればいかがですか」「漢字を繰り返し練習されたらいかがですか」とアドバイスする程度が適切と言えます。
しかし、サービス業化した学校は、「家での勉強まで見てくれる学校」を演じないわけにはいかず、保護者の求めに応じて大量の宿題を出すことになります。教員は宿題プリントを印刷する時間が増え、提出チェックの時間が増え、丸つけの時間が増え、休み時間にはやってこない子の世話、間違えた子への指導が増えました。
私は、現在の学校が求められる(さらに自らに課している)業務量や責任は、教員が処理できる限界を超えていると思います。それらをやりこなすのは「不可能」です。
数十人の子どもたちを狭い空間に閉じこめて、勉強を教えながら、生徒指導もし、安全も管理するという設定がそもそも不可能です。
仮にそのアクロバティックな指導をやり遂げる教員がいたとして、職員室の席を全てそのような教員で埋めるのは不可能です。
そんなこと保護者だって分っているはずです。「今年ははずれ」「今年は当たり」と担任を査定するのは、すべての教員が粒揃いでない事を理解しているからです。
しかし、実際に教室に問題が発生すると、「それは担任の責任」となってしまいます。不可能が「可能であるべき」と判定されます。
教員免許を持っているからと言って、授業の腕や生徒指導の力量が保証されているわけではありません。
教員採用試験に合格したからと言って、子どもに命令をする権限が発生するわけでもありません。
教室に入り、先生が前に立てば、どんな子もいい子になるという魔法はありません(ちょっとありますけど)。
しかし、何かあった時には、「学校はそれくらいやって当然だ」「教員だからそれくらいできて当たり前だ」という見方が湧き上がります。
生産能力と受注量のミスマッチは、企業では経営破綻の危機すら発生させます。
しかし、学校は残業手当を出さなくてもよいという合法的なブラック企業なので、教職員の長時間労働を使ってその危機を乗り越えます。
しかもです。
保護者の学校に対する満足度(2018年ベネッセ調査)は83.8%が「とても満足している」「まあ満足している」と非常に高く、これは2004年の73.1%から年々増加しています。またPISAの学力調査(2018)では、日本の高校生の学力は37か国中、数学1位、科学2位、読解力11位であり、堂々のトップクラスです。また日本は治安も極めてよく、殺人発生率が156か国中154位というデータがあります。
見事な教育の結実。すさまじいビハインドから、大変な成果を叩き出してしまっているのです。 「一体何が問題なの?」と言われると二の句が出ません。
一見、うまくいっているように見えるのは、それらが平均値だからであり、個人レベルで見ると、学校教育の犠牲になっている子どもはたくさんいます。それは特に、いじめや不登校などに顕著です。日本の子どもの「精神的な幸福度」が最下位から2番目の37位だったというニュースも衝撃的でした。順位が低かった理由の一つに自殺率の高さがあります。ここでも、個人にしわ寄せが来ている構造が見えます。
また学力格差も問題になっています。学力格差によって生涯賃金で億単位の収入格差が生まれます。今、コロナで非正規シングルマザーが厳しい生活環境にあることが明らかになっています。
弱者を切り捨てるかのような社会を作ってしまっているのも、また学校教育なのです。
学校は「不可能です!」と自ら声に出さないと、この泥沼からは脱出できません。少なくとも、保護者の監督責任くらいは、保護者に返していかないと健全な国家とは言えないでしょう。例えば、
「学校で人に迷惑をかけないように教えるのは保護者の責任である」
「家庭学習の主体は子どもと保護者である」
「スマホのトラブルの責任は本人と保護者にある」
というようなことを、社会通念として確立させていかなければいけないと思います。そもそもの制度は、そのようになっているのですから。
もちろん、保護者も大変なことは理解しています。母子・父子家庭、ワンオペ、多忙、収入格差、家庭内暴力、ネグレクトなど、多くの問題を抱えています。しかし、私は8〜9割以上の保護者は十分な教育能力を保持していると確信しています。その8、9割の潜在能力を引き出し、学校教育に活かしていくことが、これからの教育の改革の重要ポイントになると考えています。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を
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