学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

今回は【ポストコロナの学校改革①】で示したように「教員が子どもに対する強制力をもたない」中、実際どのように子どもたちを統率しているのかを分析し、それがどのような影響を及ぼしているかを解説します。
まず、教員が子どもたちを統率する方法を①〜⑤の5つに大きく分類してみました。
①懲戒
 叱る、罰を与えるなどの方法で子どもたちを統制する方法です。学校教育法で認められた懲戒権の発動です。昭和の時代はこれが主流でした。しかし、現代的な価値観とは次第に相入れなくなったのと、子どもたちが逆に反発するようになったことで、その効果は矮小化されています。
②興味・楽しみ
 楽しい授業、楽しい行事などで、子どもたちを惹きつける方法です。登校し、着席し、友達と仲良くしていれば、楽しい授業が受けられ、遠足にも行けるとなれば、子どもたちは先生の言うことを聞くようになります。ただ、興味を惹きつけるための準備に教員はかなりの努力を求められることになります。
③友好関係
 分かりやすい授業をしたり、子どものよさを認めたり、時には一緒に遊んだりしながら、人間関係を構築していけば、子どもたちは教員の言うことを聞くようになります。また人間関係を構築する一つの方法として、教員が子どもたちと仲良しになり、友達のような関係を構築する方法もあります。自分をニックネームで呼ばせる方もおられます。もちろん諸刃の剣です。
④納得
 例えば、「なぜ席について勉強をしなければいけないか」ということを、きちんと説明し、納得することによって、子どもは指示に従います。しかし、学校における星の数ほどの活動、行動を全て納得できるように説明していてはいつまで経っても活動が始まりません。また納得しない子に対して粘り強い説得が必要になることもあります。
⑤「空気」
 同調圧力を使う方法です。「授業中は着席する」「私語はしない」などのルールに従うことが当たり前の雰囲気を作ることで、子どもたちを統制することができます。例えば、授業中に私語をする子を立たせ、厳しく叱責したり、できている子を称賛したりすることで、教室内に「私語はしてはいけない」という「空気」を発生させます。一旦「空気」が醸成されるとその後厳しい叱責は必要なくなりますから平和的な方法です。
 
 他にも、細かい技術は多々あると思いますが、教員はこのような技術を複合的に駆使して、子どもたちを教育活動に導きます。ただ、個々の教員の得手不得手もあります。子どもの個性も、集団の個性もあります。教員と子どもたちの相性もあります。例えば、懲戒を多用する教員は、教室に強めの「空気」=息苦しさをもたらしますが、一方で規律を求めるこどもたちからは信頼されます。友好関係を重視する教員は、子どもに優しく、過ごしやすい「空気」をつくりますが、ルールに甘くトラブルが発生しやすいというようにです。これなら絶対うまくいくというような「正解」はありません。
 
「空気」による統率がもたらす弊害
前述の①〜⑤の方法で最も有効なのが「空気」(同調圧力)による統率です。実は教員が強制力をもたない中で子どもたちを統制できているのは「空気」の威力によると言っても過言ではないほどです。
「空気」というと弱々しい印象をもたれるかもしれませんが、日本を太平洋戦争に導いたのも、誰も戦争反対と声に出せない「空気」の仕業であったと考えればその威力は絶大です。
落合陽一さんは著書「0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書」の中で、明治以来の近代教育の役割について次のように述べています。
 
国民国家の理念のもと、自由と平等が保障され多様な国民によって構成された国では、国家が人々を「統率する」ことは難しく、国家の号令に国民が一糸乱れずに従うような状況は生まれにくいでしょう。そこで法と制度で縛れないものを作り上げるのは「空気」や「常識」です。国家は、教育を通じて国民の「標準」を設定し、そこに向けた「均質化」を図り、近代教育システムは、国民間で同調圧力が働くような「空気」を醸成しました。”
 
ここで述べられている「空気」は1977年に山本七平さんが著した「『空気』の研究」で示されたものです。山本七平さんは、終戦間際の戦艦大和の沖縄特攻が、データ上は「無謀」以外に何ものでもなかったにもかかわらず、軍令部が特攻出撃を決めた(決めざるを得なかった)理由を「空気」であるとし、日本人の意思決定に強い影響力をもつ「空気」について論じています。
 
つまりよい意味でも、悪い意味でも、日本の教育は「空気」とは切っても切り離せない関係にあります。日本の秩序自体が「空気」によって守られているのですから、学校に期待される社会性とは単に「空気」を読むことと置き換えてもよいかもしれません。
教室の中に秩序維持の「空気」を作るためには、「みんな同じにならなければいけない」という圧力をかけることが必要です。この反対が「自由」ですから、「空気」で縛られた教室はどこか息苦しい雰囲気をもちます。しかし、一定程度「規律がある」状態の方が、子どもたちも安心して過ごせるのも事実です。
次の文は平成の大教育家である向山洋一さんが著書「向山流・子供とのつきあい方」(1988)に記したものです。
 
”着任式の修了後、子供たちと話し合う時間は三分間しかなかった。次に入学式がひかえていたからである。
校庭のはじにつれていってしゃがませた。
二人の子供が、近くの丸太に腰かけた。
教師の指示からはずれたこの行動を決して見逃してはならない。
これは、やんちゃ坊主のアドバルーンなのだ。アドバルーンは二方向を向いている。
「この教師はどう出てくるかな」という教師向けと、「俺はこんなことやっちゃってるものね」という子供向けと。
いずれクラスがまとまってくれば、こんなことはどうでもよくなる。しかし、初めは見逃してはいけないのだ。
「先生の言った通りにしゃがみなさい」と、少し強く指示した。
この時大切なことは、毅然としていることだ。つまり、「指示にあいまいさがないこと、はっきりした態度であること」が大切なのである。
子供はすぐに、丸太から降りた。”
 
向山さんは、「子供たちの中に教師の権威を打ち立てる」と表現しています。私はこれも「空気」による統制の一種と考えます。
向山さんの偉大なところは、このような「空気」を醸成しながらも、子どもたちが学習や生活の中で、幅広い自由度をもって活動しているところです。
並の教員は、子どもたちに幅広い自由度をもたせるだけの懐の深さはありません。担任は自分の教室で安定した統制が保たれるように、やや強めの「空気」を作りたがります。そのためには、子どもたちのアドバルーンに常に敏感に反応し、イレギュラーな行動に気づいて「ダメ」と修正することが大切な業務になります。
そこでは、「自ら考える子」はとても厄介な存在になります。奇抜な遊びが発生するたびに「危ないからダメ」「ダメなものはダメ」とモグラ叩きをします。子どもたちが「先生、○○してもいいですか」と聞くと、たいていの場合は「ダメです」という答えが出てしまいます。「○○してもよい」という自由度が増すと、「空気」が壊れやすくなるのを感じているからです。
 
教室の中に「よい子」が多いと、教員はクラスを統制しやすくなります。「よい子」とは、担任が作る「空気」を敏感に感じ取って行動できる子であり、「おかしいな?」と感じても声に出したりしない子です。これが学校教育で育てる社会性であり、実際に社会が求めている社会性でもあります。
教員は子どもの時に、この「よい子」層にいた人が確実に多いです。そして、自らも教室で「空気」を保つことが仕事になります。職員室でも「空気」が判断材料ですから、「なんで5時になったら帰ってはいけないのですか」などと発言することはタブーです。
 
教室の中には、自分たちの自由度を上げたいという「アンチ」もいます。向山さんの引用では「やんちゃ坊主」と書かれていましたが、教員の統率に抗う層です。
教員の作る「空気」とは別に、アンチも「空気」を作ります。「アンチリーダー」に統率力があると、担任には厄介です。統率力には大人も子どももありません。子どもの中にもカリスマ性をもった人物はいるもので、それがよい子リーダーであればいいのですが、アンチリーダーだと、並の教員では到底太刀打ちできないです。
アンチリーダーのいる教室では、担任の「空気」とアンチリーダーの「空気」のダブルスタンダードになります。
いじめの首謀者は「あいつを無視しよう」という「空気」を作り、学級崩壊の首謀者は「先生を無視しよう」という「空気」を作ります。
子どもたちはその「空気」を読み、自分の行動を決めます。アンチ側についた子どもはアンチと一緒に問題行動を起こしますが、内面は非常に苦しんでいます。個別に指導すると目がキョロキョロして定まりません(これは全国共通の現象のようです)。じっくり話すと以前のいい子に戻りますが、また「空気」の軋轢の中に戻すと、アンチ側に戻ります(これも全国共通の現象のようです)。
教員の側につかないことを責めるのは酷でしょう。自分で考えたり、おかしいなと声に出したりしないように暗黙の指導をしてきたのは教員です。
「いじめ絶対にダメ!」とピンポイントで「空気」を読むなと言われても無理です。多くの大人も「空気」を読みながら社会の矛盾から目を逸らしています。
 
私は担任をしている時に、このような「空気」による統制に違和感を感じていました。しかし、実際に「空気」を緩めてみると、急激に子どもたち中のアンチの「空気」が強くなるのを肌で感じ、すぐさま軌道修正せざるを得ませんでした。担任にとってこれは大変な恐怖です。ものすごく統率力の高い先生でも、子どもたちが言うことを聞かなくなる夢を見て、目が覚めることがあると言います。
 
このような「空気」=同調圧力による統制には甚大な副作用が発生します。大きく「正義に基づいた判断力が育たない」「対話による解決力が育たない」「自己責任論を強化する」の3つについて述べます。
 
正義に基づいた判断力が育たない
「空気」に合わせて振る舞っている人は圧力に従っているだけで正義に従っているわけではありません。たまたま「空気」が正義側に傾いているだけのことです。第二次世界大戦の中で多くの人が戦争が間違っていることを気づいていましたが口に出せませんでした。コロナ禍の中で、マスクを着用せずにお店に入るのは大変勇気のいることです。それはウイルスの感染が怖いと言うよりも、人からどう見られるのだろうという恐怖です。
そして、「空気」そのものが正義にすり変わっていくことさえあります。ゴミが散乱している場所ではポイ捨てがしやすくなり、タバコを吸う人が多い場所ではタバコが吸いやすくなり、誰もが車でスピードを出して走っている道路ではスピードを出しやすくなるのは、誤った「空気」=正義が醸成されているからです。その誘惑に負ける人の中に真の正義はありません。
子どもの中に真の正義感をもっている子がいたら教員はやりづらいです。学校のルールは矛盾に満ちているからです。例えば、掃除です。小学校では15分程度の設定が多いですが、担当場所によって15分かかるところもあれば2、3分で終わるような場所もあります。早く終わってしまった子が遊び始めると同調圧力が壊れますから教員は必死でこれを守らなければなりません。きれいになったところを「時間いっぱい何度も掃除しなさい」と言う理不尽な指示が発生します。「もうきれいになっているのになぜ何回もしなければいけないのですか」と言う正しい子がいると、返答に困ります。
そのような事態が頻発すると、教員は同調圧力を保てませんから普段から「正しいことを言え」という教育には消極的にならざるをえません。文句を言わずに言われた通りにやる子を賞賛することによって文句を言わない空気を醸成します。かなり残念なことですが、こういう「空気」を醸成できるのが、現場では「優れた教員」なのです。本当は子どもたちに考えさせれば一番良いのですが詰め込まれたカリキュラムの中でそんな余裕はないです。このようにして「正義」も「判断力」も育てられないまま学校はここまできました。
 
対話による解決力が育たない
「空気」の中では対話によってすり合わせると言う作業は必要ありません。なんとなくみんなこんな風に考えているのだろうなということを察知する能力を駆使し、そこで読み取ったマジョリティーを基に行動が決められます。そもそもみんなが同じことを考えているわけはないのですが、「みんな同じことを考えているはず」という幻想のもとに行動が規定されていくのです。
コロナ禍においても、「みんな自粛すべき」という「空気」が発生しましたが、人によって温度差がありました。県外ナンバーの車に傷をつけたり、マスクをしていない人に攻撃したり、開店しているお店に嫌がらせの張り紙をするという「自粛警察」が出現しました。共通するのは、対話によって調整するのではなく、いきなり断罪に至る所です。おそらく自粛警察の中では、「みんなそう思っているはず」という正義が燃え上がっているのだと思います。
「空気」が支配する中では、対話によって何かを決めたり分かり合ったりする過程が大胆に省略されます。これは多忙でオーバーワークな日本では非常に有効な機能ですが、対話によって解決する力はどんどん衰退していきます。
子どもたちはケンカをしても、対話によって解決するということをほぼしません。担任に訴えて聞き取ってもらい判決してもらいどちらかが謝って解決に至ります。または、一定期間、距離を置いて、ほとぼりが冷めた「空気」を感じたところで、また元に戻るかです。
職員会議でも、2、3意見が出た後で、最後は校長の顔を見たり、全体の「空気」を察知したりて結論が出ます。「空気」を無視した発言をしてしまうと収拾がつかなくなる=いつまでも帰れなくなるので、慎重にならざるを得ません。
授業における子どもたちの対話も実に寂しい限りですがこれはまた別の機会に述べます。
 
自己責任論を強化する
コロナによって社会の問題が次々と可視化されましたが、私はその最たるものは「収入の格差」だと思います。ネットカフェ難民が東京で4000人というニュースはショックでした。非正規雇用の母子家庭、父子家庭では、雇用を切られたり、子どもの世話で仕事に行けなかったりすると貯蓄もなく、子どもに食事を与えることができないという現実が浮き彫りになっています。社会の弱者を経済のクッションにしているという実態に怒りを感じる一方で、自分の中に「非正規の人は努力が足りなかったのだ」という心理が発生する残念な自分がいます。
「空気」によって保たれた空間は、マイノリティーに冷たいです。自己主張が強い人や(それが正しい主張であっても)、みんなとは違う行動をする人には(それが合理的であったとしても)温かくない視線を送ります。その考え方は「何かあっても知らないぞ」という突き放し=自己責任論と親和性が高いです。
「非正規の人たちは不当に虐げられている」という認識が発生しても、「俺は就職するために必死に努力したぞ」「子どもの時から真面目に勉強してこの地位を獲得したんだ」とそこに手を差し伸べることを否定する心理も働きます。学校には「勉強しないと将来困るぞ」という強烈な「空気」が存在するからです。この「空気」=正義と思えば自業自得という冷たい結論さえ正義です。
「空気」によって統制されている集団は、お互いを思いやることにも消極的です。誰かを助けるという行動が少人数であれば、マイノリティーに転落する危険性があるのです。そもそも自分の正義に基づいて判断し行動する力が失われており助けるという発想すら生まれないかもしれません。残念なことですが、職員室もほぼ「孤業」です。それぞれが自分の領域を仕上げたら、個々に帰宅し、「大変な人を手伝う」という動きは稀です(学校にもよりますが)。
 
このように、「空気」による統制は、子どもの「空気」が上回った時に、いじめや学級崩壊を発生させてしまうだけでなく、「正義に基づいた判断力が育たない」「対話による解決力が育たない」「自己責任論を強化する」弊害も発生させ、さらにいじめや学級崩壊が発生しやすくなるという悪循環です。そして、このいじめの構造は大人社会にも当然あり、自分たちすら解決できないことを子どもに「いじめ絶対にダメ!」と声高に求める矛盾があります。まずは、格差社会を見て見ぬ振りをする大人のいじめをどうにかしなければいけないはずです。(私も傍観者=加害者になっていることは十分承知しています。)
 
以上のように弊害の大きい「空気」ですが、これを是正するためには、どうすればよいのでしょう。そもそも日本の秩序を一定程度保っている「空気」による統制を変えてしまっていいのでしょうか。
変えるというのであれば、その方法は「子どもに対する強制力をもつ」ということになります。つまり、問題行動が一定レベルに達すれば然るべき処分を行うが、一定レベルに達するまでは自由という設定にすれば、教員は「空気」を張り巡らせる必要もなくなるのです。
世田谷区桜丘中学校の西郷孝彦校長は、校則をなくし、社会のルールを学校に当てはめました。つまり、友達に怪我をさせたり、ネットに友達の不本意な写真をアップしたりしたら、警察に取り調べられるということです。結果的に、子どもたちが自分で判断して行動する学校になっています。
だからと言って私はこの成功事例を日本全国全ての学校に当てはめようと言っているわけではありません。
 
まず、今の学校に生じていること、つまり、教員が子どもに対する強制力をもたないこと(秩序維持の脆弱性)がボトルネックになり、教育そのものが歪められている実態を理解していただき、ポストコロナの学校を一緒に考えていただきたいのです。
 
ある意味平和的な統率方法である「空気」を捨て、「正義」「判断力」「対話」「自己責任論の排除」を目指すのか。またその方法はどうするのかという問題はそんなに簡単ではありません。また「空気」を読まなくなった子どもたちを、企業をはじめとする社会全体が受け止められるのかという懸念もあります。
 
この問題については次回に続きます。「空気」とは対局の「ゼロトレランス」を例示した上で、私なりの具体策を提案したいと思います。

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