学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 今回は視点を変えて教科指導について話をすすめます。
 
 「詰め込み教育」という言葉を聞いたことがあると思います。それに対する「思考力の育成」「自ら学び自ら考える力」「生きる力」は、知識偏重のアンチテーゼとして、昭和の終わりから事あるごとに叫ばれ続けてきました。
 しかし平成の30年間、学校教育はこれに対する具体的な手立てをほとんど何も確立できないままここまで来てしまいました。
 
学校は何を研究してきたのか
 日本の教員は「研究授業」と言って、お互いの授業を参観することによる研修をすすめており、これは世界的に見ても評価が高いと言われています。教員はこの研究授業に大変な労力を注ぎ込みます。
 多くの教員は、子どもたちが元気よく手を挙げたり、積極的に発言したり、意見を交わし合ったり、深く思考したりする授業を「いい授業」として思い描きます。しかし、何度も言ってきたように学校は子どもに対する強制力がありませんから、席に着かないような子さえいます。まず、席に着かせる。教科書とノートを机上に出させる。教科書とノートを開かせるというところから始まります。ようやく学習が始まっても、私語があれば注意をし、話を聞いていない子がいれば声をかけ、作業が止まっている子がいれば教えに行き・・・と完全なマルチタスク、何度も言ってきた「生徒指導&教科指導のアクロバット」です。
 仮に、子どもたちがきちんと席に着き、ノートを開いて、学習の体勢に入ったとしても、今度は、子どもたちはなかなか手を挙げません。これは当たり前のことで、強制力がない中で、子どもたちを席に着かせる時に最も有効なのは「空気」(同調圧力)です。同調圧力がかかった中で、今度は逆に「みんなと違うことをしろ」という逆ベクトルを要求しているのですから、そんなに簡単に子どもたちは動いてくれません。

 
 研究授業をする時は、授業の計画書である「学習指導案」を書くのが慣例となっています。これは、授業のねらい、子どもたちの状況、1時間の授業の詳細な計画などをA4用紙で数枚にまとめるものです。あるベテランの先生が一つの学習指導案を書くのにかかった時間を記録してもらいました。指導案の協議も含め、実に20時間かかっていました。たった45分の授業をするのに20時間ですから恐るべき「逆」費用対効果です。
 
 研究授業の後には、事後の協議会が行われますが、そこで話題になるのは、「子どもが積極的に手を挙げていてすばらしい」とか「黒板の書き方が分かりやすい」「子どもたちが生き生きと学んでいた」「指導者がこんなふうに問いかければもっと子どもたちの考えが広がった」などの表面的なことばかりで、子ども一人一人の中にどんな学びがあったかということがなかなか協議されません。
 普通に考えれば、「目標とする力をつけたのは誰と誰と誰か」「つけられなかったのは誰と誰と誰か」「力がついたのは、教員のどのような手立てが有効だったからか」「力がつかなかったのはどのような手立てがたりなかったからか」ということが問題にされないとおかしいと思いますが、協議の話題はなかなかそうはなりません。目標への到達についてあまり強く言うと「ここは工場ではない」などの批判を受けるので、遠回しに促す程度にしますが、時間をかけて熱心にやっている割には、大きな穴の空いたバケツで水を汲んでいるような作業になってしまっています。
 
なぜこんなおかしなことになるかと言うと、やはり「生徒指導&教科指導のアクロバット」に戻ります。もし、すべての子どもたちが行儀よく、全力で学習に向かうのがデフォルトであったなら、協議会は、一人一人の子どもにどのような力をつけたかに目を向けざるを得ません。しかし、子どもたちの意欲も態度もまちまちな中で、まず学びのスタートラインにつくことが「大仕事」になってしまいます。「私語をしない」「手を挙げる」「発言をする」「友達の意見を聞いている」「言われた通り活動している」あたりが授業成立の最低条件です。それらをクリアした上で、「子どもが生き生きと活動している」「子どもの発言が知的」「友達と関わり合っている」「指導者の黒板が見やすい」「誰もが学習に参加している」というような「姿」を具現化することが最大の関心になってしまうのです。つまり、何度も言うように、 「生徒指導&教科指導のアクロバット」の中で「高度なアクロバット」を見せることが目的になってしまっています。そして、それができる人が次のリーダーになることで、「アクロバット」が永遠のテーマになり、本質的な部分がますます見失われるという悪循環です。
 
 かなり乱暴な言い方をすれば、授業の目的は「子どもたちにねらいとする力をつけること」ですから、寝転がっている子がいても、教室から逃げていく子がいても、お絵かきしている子がいても、最後に全員にねらいとする力がついていればいいのです。
 授業を成立させるために同調圧力を高め、ちゃんと勉強はしているけど、どのような力がついているかについては目をつむる研究では日本の未来は危ういです。
 なぜこれが問題にならないかというと、日本の社会も平成の30年間で進化できなかったからです。つまり、同調圧力に与し、言われたことを正確に遂行する人材がまだまだ企業で使えるからです。しかも、自分で考えることをあまりしないので、反抗したり、集団で反対運動を展開したりしない使い勝手のよい人材です。
 今後、企業はAIとロボットを徐々に導入し、従来型の人間を解雇していくことでしょう。流されている川の向こうに滝があっても、ゆったり流れているうちは気づきません。今、滝に向かって少しずつスピードが上がっているところです。
 
 学校教育は「企業のための人材育成」をする場ではありませんが、一人一人が幸せになるという視点から考えれば、自己実現のための力をつけることは大いにすすめられなければいけません。そして、そのための力は文部科学省の言い方を借りれば「思考力、判断力、表現力」に裏打ちされた「生きる力」であり、企業側からの言い方をすれば「付加価値を生み出せる力」です。
 

「生きる力」をどうやって育てるのか
 では、どうすれば「生きる力」「付加価値を生み出せる力」がつくのでしょう。この基本的な問題に対して、学校は悲しいくらいにノープランです。知識・技能であれば「反復」で育てられます。思考力を育てる一つの方法として「応用問題を解く」という例を考えます。教員が応用問題を出した時に、解ける子と解けない子がいます。自力で解決した子は、「思考力が備わっていた」もしくは「思考力が育った」と解釈できます。では、解けない子に対してどう指導すればよいでしょう。やり方を教えてしまった時点でそれは思考力から「技能」へと質を変えます。同様のパターンの問題を得意の「反復」で練習すれば、自力で解けた子と教えてもらって解けた子の差は見えなくなります。しかし、「思考力」という尺度で見れば、二者の間には相当な違いがあります。
 これは私の自説ですが、思考力については「自力解決」が生命線です。自力解決までのトライ&エラーが思考力を高めるというのが私の解釈です。一方で、基礎を確実に積み上げれば応用力や思考力が育つという解釈もあるかもしれません。どちらが、合っているか間違っているかということより、こういうことを学校がこれまで全く研究してこなかったということが問題ではないでしょうか。
 自力解決は、1単位が45分、50分の授業時間と極めて相性が悪いです。教員はできる子の解法をできない子に広めることで役割を終えたつもりでいますが、思考力を高めたのは「できる子」だけです。生まれながらにもっている力が高い子だけが伸びる指導では公教育の役割を果たしていません。ここで発生した知の格差は、その後の収入の格差と直結します。格差社会は学校が生み出していると言っても過言ではないと思います。
 
 「学び合い」「主体的・対話的で深い学び」がまるで教育の最先端のような言い方をされていますが、グループの中の子どもたちの様子を観察すると、できる子からできない子への知識伝達の場で終わっていることは多々あります。できない子にとっては、教員から教えられるか、子どもから教えられるかの違いでしかありません。また、子ども同士の対話による課題解決を大いに困難にしているのが、同調圧力による統制です。グループで話をしていても「何となくみんなが賛成している」とか「かしこい人に従っていれば安全」という判断しかできないように子どもたちを育ててしまっているので、対話が成立しません。
 
 私が【ポストコロナの学校改革】①〜⑤で繰り返して述べてきた、「秩序維持の脆弱性」「教員に求められるオールラウンド性」、そこから派生する「空気」(同調圧力)による統制と言った、教育制度の「ボトルネック」が教科指導にも及んでいます。
 
 私は、まず従来型の「生徒指導&教科指導のアクロバット」研究授業はコロナを機会にすっぱりやめなければいけないと思います。理由は簡単です。これからは学ぶ場所は教室に限らないからです。リモートで授業を受ける子どもは、寝転がっていようが、漫画を読んでいようが、教室から懲戒を加えることはできません。同調圧力で縛ることもできません。教員にできることは、子どもたちの知的な欲求を刺激し、タブレットの前に子どもを引きつけ、一人ひとりの力を伸ばすにはどうすればよいかという学びへの特化です。特に思考力や表現力を高めるにはどうすればいいのかという昭和からの宿題に正面から向き合う時です。

 

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質

 

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

 

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を

 

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 

【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか 

 

【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜

 

【ポストコロナの学校改革⑨】学校は何を教えるところか

 

【ポストコロナの学校改革⑩】幸せをもたらす教育施策

 

 

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