学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【ポストコロナの学校改革⑩】幸せをもたらす教育施策

前回、学習指導要領をはじめとする制度が「誰もが幸せになる」という上位目標に従って建て付けられていることを述べました。
しかし実際には今の日本がそうなっているかというと疑問です。その原因を今回は教育施策の視点からお話したいと思います。
 
「学校教育」は、人類の歴史の中では、かなり新しい制度です。学制発布から約150年。人類の歴史の中で文明が生まれてから1万年として、まばたきをするような短い制度です。
それまで家庭の労働力であった子どもたちを地域の一か所に無理やり集めて勉強を教えるというやり方は、今では当たり前ですが、かなり乱暴な制度です。この背景にあったものは「富国強兵」。国力を上げるために作った制度です。
その後、太平洋戦争の反省を経て、教育も大きな見直しが図られました。
基本的人権の尊重・国民主権・平和主義を謳う日本国憲法という上位目標の下に、教育基本法学校教育法学習指導要領が制定されています。ですから「表向きは」国民一人ひとりの幸せをゴールに制定されているのですが、国力の強化を求める指導者の欲求は今も払拭できずにいます。
 
もしあなたが国の指導者だとして、「国力を上げたい」と願うなら何をするでしょう。
私なら子どもたちを無理やりにでも勉強させるシステムを作ります。また、全員優秀でなくてもいいので国を牽引するエリートを育成します。
これを成し遂げるためには、競争原理を導入することと、カリキュラムを高度にすることが有効です。
もっと具体的に言えば、義務教育の最後に高校入試というゴールを設定し、学習指導要領を高度化させ出題内容の難易度を上げれば、一部の優秀な人材の育成が自動的に達成できます。さらに小学校1年生から競争を意識できるように、テストで点数化し、通知表で序列化します。
これは戦後の高度成長期の日本の社会の要求に見事に合致しました。エリートがシステムを作り、その他の均質な労働者がひたすら生産するという構図です。
結果的に「一億総中流時代」が訪れ日本は戦後の困窮から脱しました。
この成功体験によって、学校教育が暗黙のうちに高校受験を通過点とする「学力向上機関」として機能するようになりました。
 
前回、私は学習指導要領を肯定的に論じましたが、実際には子どもの実態には合わない部分が多々あります。
例えば小学校1年生で時計の読み方を教えます。数をやっと読めるようになった子に「1」の目盛りを「5」と読ませるのは無茶です。
小学校2年生では、「11時35分から12時15分までの時間」を求めさらられます。大人の私でも指を使いたくなる計算です。
小学校3年生では社会科で地図を学びます。背の低い子どもに「上から目線」は概念として備わっていません。
小学校4年生では理科に「星」の学習があります。授業は昼間に行うのにです。
小学校5年生では算数で割合を学びます。「45dlを1とすると」などと言われます。私は子どもの時は「45は1ではない」とまったくその意味が理解できませんでした。
小学校6年生では社会で歴史を学びます。学習指導要領では覚えることなど求められていないのに、学校ではテストで覚えることを求められるため、記憶が苦手な私には苦痛でした。
 
恐ろしいのは、積み重ねの必要な算数などでは、一度取りこぼすと、再びみんなと同じ内容を学びすすめるのは不可能と言えるほどペースが早いことです。ですから教員は必死で子どもたちに勉強を教えます。そうなるとますます国の指導者の思う壺です。
そこでもしかしたら、教育が歪められていることに気づいた教員が、子どもたちを受験戦争から解放しようと教育改革を足元から展開するかもしれません。私が国の指導者なら、教員には大量の仕事を与えて、勉強したり、反対運動を起こしたりしないようにするでしょう。実際、教員はあまりの多忙の中で、目の前のことをただただこなす思考停止状態に陥っていないでしょうか。
 
学習指導要領は表向きは日常生活を豊かに送る人間の育成を掲げていますが、高校受験評価(テスト、通知表)内容の高度化教員の思考停止という「オセロの角」を押さえられ、その理念は骨抜きにされました。
 
そして今、この昭和の国力強化システムは平成の30年間アップデートされることなく、いよいよ重大な危機が訪れています。
それがこれまでにこのブログで述べてきたように、「生きる力」「活用力」をなかなか伸ばしきれないこと、学力の格差が貧困の格差につながり負の連鎖になっていること、そもそも「幸福度」が上がっていないことなどに表れています。
皮肉なのが活用力の低迷です。エリートを育成するために学習内容を大量に詰め込んだために「考える」時間を奪い思考力が育ちません。これからの日本にイノベーションを起こす、思考力、創造力のあるエリートが育たないのです。
「大量の記憶→受験→大量の忘却」という無駄の多い学習を続けなければいけない理由は、入試において、思考力を客観的に測る出題が極めて難しいからです。そのボトルネックを突破できないために、教育を「知識」から「思考力」にシフトできないというジレンマです。
昨年、大学入学共通テストを記述式にするなどの大改革を試みましたが、反発が大きく頓挫しました。戦後の教育制度改革から75年間、全国民が全力で一直線に走ってきた道を曲げようとしても、慣性の法則が許しません。
私が危惧するのは「幸福度」です。こうやってできた今の日本が、一度足を滑らせると這い上がれない「すべり台社会」になっていることと、それを肯定する「自己責任論」が支配し、息苦しい社会になっていることです。教員がそんな社会をつくる片棒を担いでいるのではないかと懸念します。
 
この私の心配をある意味証明しているのが、世界で最も幸せな国と評されるデンマークの経済政策、教育施策です。
※以下の内容は公益社団法人富山県地方自治研究センターの機関紙「自治研とやま」No.114(2020年10月号)「富山県地方自治研究センター講演会『なぜデンマークは世界で最も幸せな国なのか』(デンマーク大使上席政治経済担当官 寺田和弘氏)」より引用させていただきます。
 
デンマークの人口は580万人
GDPは一人当たり日本の約1.5倍
・おもちゃ(レゴブロック)、風力発電機(洋上風力発電)、医薬品(インスリン)などで世界トップ
・国が企業の活動をやりやすくしている(企業の設立はオンラインで3分で可)
・企業からの税収で福祉や教育も充実
・世界人材ランキングはデンマーク1位、日本35位
・上級管理職の能力はデンマーク8位、日本55位
・時間当たりの労働生産性デンマーク5位(72.2ドル)、日本20位(47.5ドル)
・子ども関連施策の政府支出額:日本14,392円、デンマーク95,454円
・働き方が効率的(1から100までやることがあったら、利益が上がる1から30くらいに集中する)
・夏休みは1か月(もちろん大人の話)
・医療、介護は無料(税は高く、消費税は25%)
最低賃金は時給1,900円
・企業は労働者の解雇が自由にできる
・失業した人には手当だけでなく、無料で職業訓練の機会を与える(一生で平均6回くらい転職)
 
このようにデンマークは、経済政策で企業を活性化し、福祉を充実させています。
弱者への支援に支出を嫌がる「すべり台社会」の日本とは真逆です。
 
次にデンマークの教育についてです。寺田さんは特徴として5つを挙げています。
1.大学まで学費は無料
2.複線型学校制度(小→中→高→大の1本道ではなく、高校と職業訓練などの伏線があり選択できる)
3.義務教育の8年間テストがない
4.18歳以降は、学生全員に月10万円の給付金
5.成人教育、職業訓練が無料で受けられる
 
教育の完全無償化や学生への給付金によって、家庭の収入の格差が学力の格差につながる負の連鎖を断ち切ることができます。
3の「テストがない」については文中から引用させていただきます。
 
「義務教育の8年生になるまで、日本でいうと中2になるまでテストはありません。9割以上の子どもたちは、テストをやったところでやる気をなくす、自尊心を傷つけられる、あまりいいことがありません。テストをやってうれしいのは、多分上位5%ぐらいの子だけで、あまり若いときから数字でランキングを見せるということをデンマークではやりません。もちろん習熟をどれくらいしているかというのは、先生が小1の頃からずっと同じ先生についているので、それは把握されているし、高学年になればちょっとは試験もありますが、日本のように中間試験、期末試験が学期ごとに行われるということはありません。」
デンマークにないのが、偏差値、受験競争、塾です。浪人というのもあまりないです。それから『前にならえ』も聞いたことがないです。逆に、デンマークでよく見聞きするのは、質問、自主性、自尊心。テストがないというのも自尊心を傷つけないためです。社会性は日本でも多分重視されていると思うのですが、私の印象だと、日本ではどちらかというと、全体の協調性、みんなで一緒に合わせましょうということで、ある意味、個性を無視した強制的な雰囲気がどうしてもあります。デンマークの場合は、違いは認めた上で、でもどうやってその中でみんなでうまく方向性を合意、見つけていこうか、ということが社会性という言葉の意味です。」
私は、日本国憲法教育基本法、学校教育法が目指す教育を具現化すると、本当はこのような形になるはずだと思うのです。
 
もう一つ、部活動についても引用します。
 
「教育で日本にあってデンマークにないものは、例えば制服、それから部活動です。デンマークで子どもたちがスポーツをやりたいと思ったときに、地域にあるサッカークラブなどに参加するようになっています。そういう団体は公的に支援されているので、学校の先生の負担にならないように、学校教育と切り離された形になっています。地域の中で活動するので、子どもたちだけではなくて大人たち、いろんな人たちが一緒に参加する、そういう活動になっています。」
 
文中にはありませんでしたが、おそらく家庭での教育も、子どもの自尊心や自主性を大切にし、保護者が子どもの成長を積極的に支援するものになっていることでしょう。子どもを育てる機能が社会の中に分散してあり、多くの目でで子どもたちを育てる形になっています。一極集中の「日本型学校教育」とは真逆です。
 
以上のように日本とデンマークではおそらく目指すゴールは同じ「幸せ」でありながら、結果として大きな差が開いてしまっています。そして、それが教育施策とも強い結びつきがあることも間違いないと思います。
日本の教育をデンマークに近づけたいと思うのは、私だけでしょうか。そういう私も、日本の教育を変えるよりも、デンマークに移住した方が早いのではないかとさえ思ってしまうのですが・・・。
(次回は、それでも日本の教育を改善したい私の提言を述べる予定です。)
 

 

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質

 

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

 

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を

 

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 

【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか 

 

【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜

 

【ポストコロナの学校改革⑨】学校は何を教えるところか

 

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