学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 「コロナ禍は業界が先送りしてきた問題を可視化した」というのは、あるファッション業界のリーダーの言葉です。利益を優先するあまり、高回転で、大量生産し、大量廃棄する構図に限界があることがコロナ禍ではっきりしたのです。

 教育界も、様々な問題が露呈しました。私は、コロナをきっかけに改めて教育が抱える様々な問題を掘り下げて考えてみました。

 学校の問題は様々な要因が絡み合っています。例えば、いじめ問題一つ取っても、価値観の多様化、多人数の学級が抱えるストレス、教員の多忙、発達障害の問題、格差を容認する社会構造など複雑です。このような一つ一つの問題を「因数分解」し、「最小公倍数」を求める作業をしてみました。すると、様々な学校の問題が「地続き」であることが見えてきました。

 私は、現在の学校の大きな問題を「子どもたちの問題行動の多発」「学力格差」「教員の長時間労働となり手不足による教育の質の低下」と捉えています。これらの問題を解決する時に、「問題行動の多発」を抑制することによって「教員の長時間労働」が加速してしまってはいけません。また「教員の長時間労働」を解決することによってさらなる「学力格差」がすすんでしまってもいけません。これらの問題を全体的に解決するためには、すべての問題の根本に焦点を当てなければいけません。

 この間の私の気づきを、今回から【ポストコロナの学校改革】というテーマでお伝えしていこうと思います。もちろん私の独りよがりの部分もあるかと思いますので、皆さんの意見をいただければ幸いです。

 今回はやや長文になりますが、今回は「学校制度のボトルネック」について示します。それは〈秩序維持の脆弱性〉〈教員に求められるオールラウンド性〉〈感情が制度を上回る〉の3つです。

 

学校制度のボトルネック①〈秩序維持の脆弱性

 学校には生まれながらの弱点があります。それは、多くの子どもたちを集める場所でありながら、その秩序を維持するためのシステムが極めて弱いことです。基本的に、社会の秩序を維持するためのシステムは、「規準と罰」です。例えば、人に怪我をさせたら(規準)傷害罪として、15年以下の懲役または50万円以下の罰金(罰)です。時速30km以上のスピード違反は6ヵ月以下の懲役、又は10万円以下の罰金です。毅然とした「規準と罰」があり、それが秩序維持のインセンティブになっています。

 誤解のないように言っておきますが、私は学校に「規準と罰」がないことを批判しているわけではありません。未熟な子どもたちを罰によってコントロールしないことは、すばらしい思想に裏付けられた教育システムです。ただ、その理想を実現するためには、大人のたゆまぬ努力が必要なのです。それを教員だけに任せてしまっていることが問題だと言えます。

 先に「秩序を維持するためのシステムがない」と書きましたが、「ない」わけではありません。学校教育法第11条には、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。」とあります。懲戒という形で叱ったり、立たせたり、反省文を書かせたりすることはできるのです。ただ、これには限界があります。懲戒を繰り返しても、学級崩壊が生じたり、逆に懲戒を繰り返しているから学級崩壊に陥ったりするという事例もあります。人権意識の高まりから、高圧的な指導は受け入れられにくい社会的な背景もあります。今、学校の秩序を維持するためには、教員と子どもたちの信頼関係というおぼろげなものを頼りにするしかないのです。

 また秩序維持のための最終手段として出席停止という措置があります。これは、他の児童・生徒や教職員を傷つけたり、授業の妨害をしたり、施設を壊したりする子を学校に来ないように保護者に命じるものです。保護者に命じるので、懲戒ではないという解釈がされますが、実際にこれが運用されたら、子どもは自分への罰であることを自覚するでしょう。ただこれはシステムとして存在しても、使われることはほとんどありません。一言で言えば、出席停止を行って信頼関係が壊れれば、その後の指導がさらに困難になるからです。

 ちなみに秩序維持システムは、戦後の学校教育制度の発足当時は機能していました。まず、子どもたちにとって教員は威厳のある存在でしたし、ある程度の体罰も社会的に許容されていました。さらに学校での悪事が親の耳に入ろうものなら、叩かれたり、食事を抜かれたり、蔵に閉じ込められたり、家に入れてもらえなかったりという罰が存在したからです。親の教育力が一定程度、学校の秩序を保っていたのです。

 これが崩壊したのが、1980年代の校内暴力でした。力で押さえつける方法は、子どもの腕力が上回った時点で崩壊するのは自明で、これは必然の事態でした。この時点で、学校には二つの選択肢があったと思います。一つは、外部の力も借りて子どもたちを統率する一定程度の規則・システムを作るという選択、もう一つは、丸腰であっても教職員の努力によってこの問題を解決していくという選択。学校は、後者を選びました。

 

学校制度のボトルネック②〈教員に求められるオールラウンド性〉

 学校教育のシステム上の問題をもう一つ示します。周りくどい説明になりますが、例えばレストランを経営し、従業員が10人いたとして、例えばキッチンに6人、ホールに4人というような役割分担をすると思います。おそらく10人全員にホールとキッチンの両方をさせるということはしないでしょう。つまり、1組目の客が来たら、一人目のスタッフが席への案内、お冷やとメニューの提供、注文を聞き、調理をし、レジを打ち、食器を下げ、洗う。次の客には二人目のスタッフが同様に全てを行うというようにです。10人の従業員をすべてこなすオールラウンダーに育て上げるというのは一つの理想かもしれませんが、現実的ではありません。しかし、それをやっているのが学校の指導システムです。

 教員の業務を大きく分類すると教科指導、生徒指導、事務的作業となります。戦後の制度発足当時は、この3つのウエイトは教科指導が圧倒的で、生徒指導と事務的作業はかなり少なかったのではないかと思います。しかし、昭和の終盤から生徒指導のウエイトが徐々に上がり始め、平成に入ってからは生徒指導の上昇が止まることなく、教科指導も事務作業も増えているというかなりひどい状態です。

 教員の定数は教科指導を軸に定められています。1学級40人、小学校は学級担任、中学校は教科担任という基準に則って、それぞれの教室で学習指導を行うにはどれだけの人員が必要かという計算です。しかし、子どもは問題行動を起こす生き物であり、しかも40人以下を基準とした多人数を一定の空間に押し込めている時点で、問題を起こすなという方が無理です。学校には前述のように、それを「規準と罰」によって抑制するシステムもありませんから、秩序維持には相当なエネルギーが必要です。そのための人員はほぼ配置されていません。

 例えばレストランで、料理をしている最中にお客さんから「お冷やください」「追加注文お願いします」「子どもがスープをこぼしてしまいました」と次々と声がかかると対応している間に料理がこげていたということにもなりかねません。授業をしていて一人の子どもが脱走したら、それを追いかけなければいけないので、授業どころではありません。そう考えると、教員は教科指導と生徒指導を同時にこなすというかなりアクロバティックな業務をしていることが分かります。

 ではなぜ、ここに人が配置されないのでしょう。それは、財務省が教育予算を出したがらないという基本的な問題もあるのですが、原因は学校内部にもあります。教科指導&生徒指導というアクロバットやり遂げてしまう教員がいるのです。すると、すべての教員に「それを目指してがんばれ」と求める構図ができます。さらにそのような優秀な教員が学校のリーダーになりますから、「自分はできたから誰でもできる」「自分のように努力しろ」という運営になります。それは一つの望ましい姿とも言えるのですが、何の疑いもなく全員がそこに向かってしまっているため、構造上の問題も明らかにならず、人員も予算も措置されません。

 もしあなたがレストランの経営者だったとして10人の従業員をすべてこなせるオールラウンダーに育てると考えれば、それによって生じる問題点は容易に想像できるでしょう。多大な研修コスト、従業員の短所の顕在化と長所の抑制、客へのサービスのムラ、クレームの増加、離職の増加・・・。最後の離職の増加はさらなる研修コストの増加へとつながり、負のサイクルができあがります。負のサイクルができると、あとは消耗戦で、原資が尽きて倒産するまでやるしかありません。今、学校に起こっている問題はこのレストランに想定される問題とほぼ相似形です。学校は完全に多忙とサービスの低下と人材不足の負のサイクルに入っています。レストランと違うのは学校には倒産がなく、教員が長時間労働で倒れるまでやるしかないというところです。

 

学校制度のボトルネック③〈感情が制度を上回る〉

 ここまで示した〈秩序維持の脆弱性〉〈教員に求められるオールラウンド性〉という2つの問題点は制度のスタート時には問題とはならなかったのですが、時代の変化と共に弱点が顕在化していきました。残念ながら、それに対応するためのシステムの再構築が行われず、場当たり的な対処に終始しました。学校にはそんな、場当たり的な対処を許してしまう、独特の「習性」があります。

 例えば朝ごはんを食べてこない子がいたとします。元気がなく、学習に対する集中力もありません。そこで、担任がこっそりおにぎりを与えてみたところ、その子の授業態度が一転してよくなったという話は実は学校ではよくあります。担任がおにぎりを作って子どもに与えるのは、ルール違反です。食中毒、アレルギーの危険性、公教育の中で私費を特定の子に投じることの是非など決して公にできることではありません。しかし、学校ではそれが何となく黙認されてしまいます。本当であれば、行政の厚生担当などが、家庭訪問をして改善の対策を取ればいいことなのですが、学校がルールを超えて「解決してしまう」ことで行政の改善のチャンスを失います。感情が制度を超え場当たり的な対処を許してしまうことでシステムの再構築の機会を逃しているのです。

 部活動も本来の制度をはるかに上回る活動になっています。本来は教育課程外の「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」ものなのに、練習から大会まで完全に大人主導で行われています。部活動にかかわる教員の中には月に100時間を超える時間外勤務をしている人も多く、本来の制度を超越しています。

 子どものためにおにぎりを与えたい、部活動を長時間やってやりたいという「感情」が、本来の制度を上回ってルール違反の状態を作っても、それをよしとしてしまうのは学校教育の「習性」です。

 これらの問題の背景には、通称「給特法」と呼ばれる、教員に時間外勤務手当を支払わないとする法律の存在もあります。給特法は「教員聖職論」と親和性が極めて高く、「子どものため」というマジックワードによって教員の労働時間を押し上げ続けました。

 それぞれの教員がそれぞれの「子どものため」をもっているため、あらゆる分野で制度を超えるとりくみが発生し、膨れ上がりました。行事や部活動はもちろん、あいさつ運動、体力づくり、読書推進、メディア時間、家庭学習、ボランティア・・・。もちろん反対の声も上がるのですが、「子どものため」というマジックワードは最後にどんな提案も押し通す力があります。

 テレビドラマの熱血先生が子どもに寄り添うために時に常識を逸した行動に出る姿もこの傾向を後押ししたと思います。

 学校は校内暴力をきっかけに、保護者・地域からの信頼確立・信頼回復が大命題となり、サービス業化していきます。その中で、保護者や地域から制度を上回るような要求があっても、それを受け入れることになります。例えば、保護者から「うちは共働きで二人とも早く出勤しなければいけないので学校を7時に開けてください」というような要求があった時に、多くの学校はそれを受け入れてしまいました。教職員の出勤は大抵8時以降ですから、制度に合っていません。例えば、同じような要求が市役所やスーパーマーケットで通用しないのは誰だって分かっているのですが、学校は感情が制度を上回ることを保護者・地域も合点しているのです。

 学校は、内部からも外部からも、「子どもたちのため」というマジックワードによって恣意的に変えられていきました。そして、その多くは教職員への負担という形で押し寄せました。結果として、教育の質の低下を招き「子どもたちのため」になっていないというパラドックスに苦しんでいます。

 

3つのボトルネック〈秩序維持の脆弱性〉〈教員に求められるオールラウンド性〉〈感情が制度を上回る〉に共通しているのは、どれもそれが「当たり前」で済まされてきたという点です。つまり、「先生が子どもを統率できるのは当たり前」「先生は何でもできて当たり前」「先生は子どもたちのためにがんばって当たり前」という非現実的な「当たり前」が、学校外部だけでなく学校内部でも共通認識になってしまっていました。そのため、何か問題があっても原因を全て教員に帰着させて、根本的な解決を見ることなく、傷口を広げ続けてきました。

 逆に言えば、「子どもたちの問題行動を教員の努力だけで抑えることは不可能である」「教科指導も生徒指導もオールラウンドにこなす教員で学校を運営するのは不可能である」「それぞれの思いではなく制度に従って学校を運営しなければいけない」という視点に立てば、これからの学校のすすむ道は自ずと明らかになっていくのではないでしょうか。そこにある学校は、「子どもたちの問題行動の多発」「学力格差」「教員の長時間労働となり手不足による教育の質の低下」などの様々な教育問題に対応しうるものになっていくと思います。

  

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

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