学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

前回、【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質で述べたように、学校は内外の圧力によって、抱えきれないほどの業務と責任を背負うことになりました。

特に私がこの30年間の「痛恨の一打」と思うのが、保護者の監督責任を学校が丸抱えしてしまったことです。

民法712条、714条をご存知でしょうか。(念のため条文をそのまま掲載しておきます。下線、筆者)

 

712条【責任能力

未成年者は、他人に損害を加えた場合において、自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていなかったときは、その行為について賠償の責任を負わない

714条【責任無能力者の監督義務者等の責任】

① 前2条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者はその責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。

② 監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者も、前項の責任を負う。

 

簡単に言えば、「子どもがお店の物を壊したら親が弁償する」という法律です。

少なくとも昭和においては、学校での問題行動は保護者が責任をもつ意識がもっと高かったです。例えば、学校でガラスを割れば保護者が弁償したり、友達にケガをさせたら菓子箱をもって保護者が謝罪に行ったりというようにです。

確かに、教員(民法714条②の監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者)にも責任は発生するのですが、それは主として授業時間を中心とした学校の教育活動場面が対象となります。

最近は、子どもが学校で起こした問題は、すべて学校の責任という見方が強くなっています。特に、学校でいじめや暴力があった場合、学校の安全配慮義務と代理監督義務が強く問われるようになりました。いじめ事故が生じた時に、報道カメラに向かって深々と頭を下げる管理職や教育委員会の姿がその誤解を定着させているようにも思えます。

そもそも学校が適切な指導を繰り返しているにもかかわらず、いじめや暴力行為、破壊行為をしたら(状況にもよりますが)それは保護者の責任となって然るべきです。実際、判例でも「児童・生徒による加害行為が行われた場合には、学校の責任と保護者の責任との両方が認められる場合と、学校の責任を否定しつつも保護者の責任が認められる場合とが多数を占めている」(2016「学校と法」坂田仰)とのことです。

民法の効力は昔も今も変わっていないので、裁判になれば、保護者の責任は免れないのですが、裁判以前の段階では「すべて」学校に責任があると言ってもおかしくないくらいの傾き方です。家に帰ってからのスマホトラブルでさえ、学校で調査、指導を求められるほどです。

 この原因は、学校内部にもあります。学校のサービス業化に伴って、自虐的と言えるほど、責任を教員自らに向ける考え方が定着していきました。私自身も、子どもたちのトラブルがあった場合は、学校で加害児童から被害児童に謝罪をさせ、双方の保護者に連絡をし、特に被害児童の保護者には「学校の指導が十分でなく申し訳ありませんでした。」と謝罪をするのが当たり前になっています。もちろん、怪我をさせたり、物を壊したりと明らかな損害が発生している場合には、加害児童の保護者から謝罪や弁償を促します。(これらの対応は地域によっても異なるかもしれません)

先生方に「いじめの責任は誰にあると思いますか」と聞くと、誰もが「担任」「学校」と答えます。「いや。学校がきちんと指導していれば責任は保護者ですよ」と言うと、みんな驚きます。「知らなかった」と言います。

そもそも教育基本法には「第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」とあります。責任は明確に保護者に位置づけられているのです。

最近では、我が子が教室で暴れても「子どもとの人間関係を作れなかった学校の責任だ」と子どもへの働きかけを拒否したり、我が子が人に怪我をさせても「私は謝りに行きません」と突っぱねたりと、保護者としての役割を放棄したかのような姿が散見されます。(極めてごく一部の保護者です)

 

家庭学習についても学校の役割が高まっています。保護者の定番の要求は、「先生、うちの子家に帰ってもゲームばかりしているのでもっと宿題を出してください。」です。こんなふうに言われると、「ゲームを買ったのはご両親じゃないですか」と言いたくなりますが、ぐっとこらえます。子どもにもっと勉強してほしいと思うなら、問題集を買ってきて、横について一緒にやればいいのですが、嫌がる子どもをしつけることは時間も手間もかかります。コロナ禍でも、「プリントしか出さない」「プリントすら出さない」学校に静かな批判が起こりました。

昔の保護者は子どもに「勉強しなさい」と自主学習を命じましたが、今の保護者は「宿題したの」です。「勉強しなさい」と言っても「何すればいいの」と聞かれたら答えられません。そうなると「宿題」という強制力に頼るしかありません。ある6年生の保護者は担任に「中学校に行くと課題がたくさん出て、小学校のうちに家で勉強する力がついていないとついていけなくなるんです。中学校で落ちこぼれたら先生のせいですからね」と迫ったそうです。

確かに、学習指導要領には「家庭との連携を図りながら,児童の学習習慣が確立するよう配慮すること」と示してあります。この文言は「脱ゆとり」に舵を切り替えた、平成20年度学習指導要領から追加されました。しかし、家庭で過ごす時間の主体は、あくまで保護者と子どもであり、そこに学校の指導を持ち込むのは「治外法権」です。「家庭との連携を図りながら」「配慮する」という遠回しな言い方になっているのはそのためでしょう。担任は、宿題を出さなくても、保護者に「教科書の計算問題を家でもやってみればいかがですか」「漢字を繰り返し練習されたらいかがですか」とアドバイスする程度が適切と言えます。

しかし、サービス業化した学校は、「家での勉強まで見てくれる学校」を演じないわけにはいかず、保護者の求めに応じて大量の宿題を出すことになります。教員は宿題プリントを印刷する時間が増え、提出チェックの時間が増え、丸つけの時間が増え、休み時間にはやってこない子の世話、間違えた子への指導が増えました。

 

私は、現在の学校が求められる(さらに自らに課している)業務量や責任は、教員が処理できる限界を超えていると思います。それらをやりこなすのは「不可能」です。

数十人の子どもたちを狭い空間に閉じこめて、勉強を教えながら、生徒指導もし、安全も管理するという設定がそもそも不可能です。 

仮にそのアクロバティックな指導をやり遂げる教員がいたとして、職員室の席を全てそのような教員で埋めるのは不可能です。 

そんなこと保護者だって分っているはずです。「今年ははずれ」「今年は当たり」と担任を査定するのは、すべての教員が粒揃いでない事を理解しているからです。

しかし、実際に教室に問題が発生すると、「それは担任の責任」となってしまいます。不可能が「可能であるべき」と判定されます。 

 

教員免許を持っているからと言って、授業の腕や生徒指導の力量が保証されているわけではありません。 

教員採用試験に合格したからと言って、子どもに命令をする権限が発生するわけでもありません。 

教室に入り、先生が前に立てば、どんな子もいい子になるという魔法はありません(ちょっとありますけど)。

しかし、何かあった時には、「学校はそれくらいやって当然だ」「教員だからそれくらいできて当たり前だ」という見方が湧き上がります。 

  

生産能力と受注量のミスマッチは、企業では経営破綻の危機すら発生させます。 

しかし、学校は残業手当を出さなくてもよいという合法的なブラック企業なので、教職員の長時間労働を使ってその危機を乗り越えます。 

しかもです。 

保護者の学校に対する満足度(2018年ベネッセ調査)は83.8%が「とても満足している」「まあ満足している」と非常に高く、これは2004年の73.1%から年々増加しています。またPISAの学力調査(2018)では、日本の高校生の学力は37か国中、数学1位、科学2位、読解力11位であり、堂々のトップクラスです。また日本は治安も極めてよく、殺人発生率が156か国中154位というデータがあります。 

見事な教育の結実。すさまじいビハインドから、大変な成果を叩き出してしまっているのです。 「一体何が問題なの?」と言われると二の句が出ません。 

一見、うまくいっているように見えるのは、それらが平均値だからであり、個人レベルで見ると、学校教育の犠牲になっている子どもはたくさんいます。それは特に、いじめや不登校などに顕著です。日本の子どもの「精神的な幸福度」が最下位から2番目の37位だったというニュースも衝撃的でした。順位が低かった理由の一つに自殺率の高さがあります。ここでも、個人にしわ寄せが来ている構造が見えます。

また学力格差も問題になっています。学力格差によって生涯賃金で億単位の収入格差が生まれます。今、コロナで非正規シングルマザーが厳しい生活環境にあることが明らかになっています。

弱者を切り捨てるかのような社会を作ってしまっているのも、また学校教育なのです。

 

学校は「不可能です!」と自ら声に出さないと、この泥沼からは脱出できません。少なくとも、保護者の監督責任くらいは、保護者に返していかないと健全な国家とは言えないでしょう。例えば、

「学校で人に迷惑をかけないように教えるのは保護者の責任である」

「家庭学習の主体は子どもと保護者である」

スマホのトラブルの責任は本人と保護者にある」

というようなことを、社会通念として確立させていかなければいけないと思います。そもそもの制度は、そのようになっているのですから。

もちろん、保護者も大変なことは理解しています。母子・父子家庭、ワンオペ、多忙、収入格差、家庭内暴力、ネグレクトなど、多くの問題を抱えています。しかし、私は8〜9割以上の保護者は十分な教育能力を保持していると確信しています。その8、9割の潜在能力を引き出し、学校教育に活かしていくことが、これからの教育の改革の重要ポイントになると考えています。

 

 

 

 

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質

 

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

 

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を

 

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 

【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか 

 

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