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持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【ポストコロナの学校改革⑨】学校は何を教えるところか

前回、私のブログに意見を寄せてくださった方の中から、「学校は何を教えるところか」という問題提起がありました。それに対する反応が「多様」であることに少し驚きました。
「教科を教えるところだ」
「いや勉強ではなく人間性を育てるところだ」
というようにです。

 

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私は、ここまで「ポストコロナ」について述べながら「学校は何を教えるところか」という共通理解はできているものだと思っていました。
日本ではこのように議論の土台が共通しているという「幻想」のもとに議論が進むことがよくあります。以前のブログでも指摘しましたが「空気」を読むことで、擦り合わせをせずに衝突を回避しながら効率よく結論を出そうとする風土があるからだと思います。


私の答えは極めてシンプルです。それは
「学習指導要領に示された内容を教える」
です。(私の所属団体のことをよく知る方は少々驚かれるかもしれません。苦笑)


例えば、学習指導要領に示された小学校の国語の目標は次の通りです。


言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 日常生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。
(2) 日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う。
(3) 言葉がもつよさを認識するとともに,言語感覚を養い,国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。


シンプルにまとめられています。そもそも学校教育でめざすものは「学力向上」ではないことが分かっていただけると思います。
このように各教科、道徳、特別活動それぞれに目標が定められており、どれも子どもたちが日常生活を豊かに送れるようにすることがねらいです。


この学習指導要領は、さらに上位の目標である「学校教育目標」をもとに作られています。そこには「学校は何を教えるところか」が整理して示されています。


第18条 学校教育の目標
1 学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。
2 郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
3 日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
4 日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
5 日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
6 日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
7 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
8 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。

 

さらに上位の目標は、教育基本法になります。(2003年に残念な改正が行われましたが今はそれは置いておきます。)

教育基本法には第1条に「教育の目的」が示されています。


第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


この「人格の完成」は学校教育だけで目指すものではなく、幼児教育から始まる生涯学習の中で、あらゆる場所、あらゆる機会に育成していくものです。学校教育だけで「人格の完成」をさせなければいけないと、行事や部活動をどんどん詰め込む考え方をする人がいますが、無理があります。
前回のブログでも述べたように、学校以外でも、様々な機会、様々な場所、たくさんの大人の目で子どもたちを育てていくことがコロナ後の社会では必要だと思います。


この教育基本法よりさらに上位の目標は、日本国憲法になります。
日本国憲法の基本理念は、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義です。
この基本理念が目指すさらに上位の目標はどこにも書かれていませんが、それは「だれもが幸せになること」であることは自明です。


言い換えれば、学校教育は「だれもが幸せになれる社会を作る人を育てる」ための営みだと言えます。それを言い換えたのが教育基本法「平和で民主的な国家及び社会の形成者」であると私は解釈しています。(決して国家主義的な意味ではなく)


本当は学習指導要領どおりに子どもたちに教育をすすめていけば、この上位目標に到達するはずなのです。(もちろん、学習指導要領は完璧ではないどころか、上位目標と矛盾する要素をもっていることも確かです。)
しかし、教育は「感情が制度を上回る」ために、さまざまな恣意的な変更が行われ、そこに歪みが生まれます。

歪みを生む一つは、このブログで繰り返し述べている「子どもの問題行動対応への困難さ」です。学習指導要領の内容を教える以前に子どもたちを席に着かせ、トラブルなく学習を進めようとするところで上位目標が見えにくくなります。同調圧力や時には理不尽なルールで子どもを統制してしまい、望ましい社会性や自主性、自律性を抑制してしまいます。

もう一つ上位目標を忘れさせてしまうものに「競争」があります。テスト、通知表をはじめとする評価、子どもたちを輝かせようとするコンクールや大会、表彰、義務教育の最後に待ち構えている高校受験。競争原理を使って上へ上へと子どもたちを伸ばそうとする方法です。「切磋琢磨」と言えば聞こえはよいですが、学校に競争が入ると部活動や全国学力・学習状況調査のようにおかしな過熱が発生します。
「上へ上へ」のモチベーションを支えているのは、「勉強ができれば幸せになれる」という文脈です。しかし、ここに大きな落とし穴があります。
それは、「自分だけが幸せになろうとすると自分も幸せになれない」という社会のパラドックスです。競争は格差を生み、格差は分断を生み、最後は孤立をもたらすからです。学校は表向きは協力で成り立つ社会を謳いながらも、奥深いところで格差を是認しています。

そして「勉強ができれば幸せになれる」は、裏返せば「幸せになれないのは勉強しなかったあなたが悪い」という自己責任論の強化です。今の日本はうっかり足を滑らせると、どこまでも落ちていき這い上がることのできない「すべり台社会」とも揶揄されます。

 

2020年、世界156カ国を対象にした「幸福度」の調査結果では、日本は前年より4つ順位を下げ62位でした。最近では、「日本の子どもの『精神的な幸福度』が最下位から2番目の37位だった」というニュースもありました。

もちろん、この数字を鵜呑みにするわけではありませんが、これほど学力が高く、治安もよい社会を作りながら、やはりどこか閉塞感に包まれている社会になっています。この事実に私たちは本気で向き合わなければいけないのではないでしょうか。

 

教員は今、大変多忙な中で仕事をしています。しかし、その大量の業務の中には、「誰もが幸せになれる社会」とは逆ベクトルのものもあります。そういうマイナスの業務をまず止め、ゆとりのある豊かな教育を実現することが必要です。こんなに一生懸命やっているのに、不幸な社会を作る手助けをしていたとすれば悲しすぎます。

教員、保護者、教育関係者だけでなく、社会全体でこれからの日本のあり方を考えていかなければいけません。コロナがそのきっかけを与えてくれているのだと私は思います。

 

最後におまけです。下の写真は小学校の各教科の学習指導要領解説です。手前が主として人間形成に関わる道徳、特別活動。奥は教科教育の、国語、社会、算数、理科、生活科、体育、音楽、図画工作、家庭科、外国語・外国語活動、総合的な学習の時間。もし、「学校は教科を教えるところか、人間形成をするところか」と聞かれれば、私は「9対1で教科教育」と答えます(もちろん冗談です)。

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