学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 「コロナ禍は業界が先送りしてきた問題を可視化した」というのは、あるファッション業界のリーダーの言葉です。利益を優先するあまり、高回転で、大量生産し、大量廃棄する構図に限界があることがコロナ禍ではっきりしたのです。

 教育界も、様々な問題が露呈しました。私は、コロナをきっかけに改めて教育が抱える様々な問題を掘り下げて考えてみました。

 学校の問題は様々な要因が絡み合っています。例えば、いじめ問題一つ取っても、価値観の多様化、多人数の学級が抱えるストレス、教員の多忙、発達障害の問題、格差を容認する社会構造など複雑です。このような一つ一つの問題を「因数分解」し、「最小公倍数」を求める作業をしてみました。すると、様々な学校の問題が「地続き」であることが見えてきました。

 私は、現在の学校の大きな問題を「子どもたちの問題行動の多発」「学力格差」「教員の長時間労働となり手不足による教育の質の低下」と捉えています。これらの問題を解決する時に、「問題行動の多発」を抑制することによって「教員の長時間労働」が加速してしまってはいけません。また「教員の長時間労働」を解決することによってさらなる「学力格差」がすすんでしまってもいけません。これらの問題を全体的に解決するためには、すべての問題の根本に焦点を当てなければいけません。

 この間の私の気づきを、今回から【ポストコロナの学校改革】というテーマでお伝えしていこうと思います。もちろん私の独りよがりの部分もあるかと思いますので、皆さんの意見をいただければ幸いです。

 今回はやや長文になりますが、今回は「学校制度のボトルネック」について示します。それは〈秩序維持の脆弱性〉〈教員に求められるオールラウンド性〉〈感情が制度を上回る〉の3つです。

 

学校制度のボトルネック①〈秩序維持の脆弱性

 学校には生まれながらの弱点があります。それは、多くの子どもたちを集める場所でありながら、その秩序を維持するためのシステムが極めて弱いことです。基本的に、社会の秩序を維持するためのシステムは、「規準と罰」です。例えば、人に怪我をさせたら(規準)傷害罪として、15年以下の懲役または50万円以下の罰金(罰)です。時速30km以上のスピード違反は6ヵ月以下の懲役、又は10万円以下の罰金です。毅然とした「規準と罰」があり、それが秩序維持のインセンティブになっています。

 誤解のないように言っておきますが、私は学校に「規準と罰」がないことを批判しているわけではありません。未熟な子どもたちを罰によってコントロールしないことは、すばらしい思想に裏付けられた教育システムです。ただ、その理想を実現するためには、大人のたゆまぬ努力が必要なのです。それを教員だけに任せてしまっていることが問題だと言えます。

 先に「秩序を維持するためのシステムがない」と書きましたが、「ない」わけではありません。学校教育法第11条には、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。」とあります。懲戒という形で叱ったり、立たせたり、反省文を書かせたりすることはできるのです。ただ、これには限界があります。懲戒を繰り返しても、学級崩壊が生じたり、逆に懲戒を繰り返しているから学級崩壊に陥ったりするという事例もあります。人権意識の高まりから、高圧的な指導は受け入れられにくい社会的な背景もあります。今、学校の秩序を維持するためには、教員と子どもたちの信頼関係というおぼろげなものを頼りにするしかないのです。

 また秩序維持のための最終手段として出席停止という措置があります。これは、他の児童・生徒や教職員を傷つけたり、授業の妨害をしたり、施設を壊したりする子を学校に来ないように保護者に命じるものです。保護者に命じるので、懲戒ではないという解釈がされますが、実際にこれが運用されたら、子どもは自分への罰であることを自覚するでしょう。ただこれはシステムとして存在しても、使われることはほとんどありません。一言で言えば、出席停止を行って信頼関係が壊れれば、その後の指導がさらに困難になるからです。

 ちなみに秩序維持システムは、戦後の学校教育制度の発足当時は機能していました。まず、子どもたちにとって教員は威厳のある存在でしたし、ある程度の体罰も社会的に許容されていました。さらに学校での悪事が親の耳に入ろうものなら、叩かれたり、食事を抜かれたり、蔵に閉じ込められたり、家に入れてもらえなかったりという罰が存在したからです。親の教育力が一定程度、学校の秩序を保っていたのです。

 これが崩壊したのが、1980年代の校内暴力でした。力で押さえつける方法は、子どもの腕力が上回った時点で崩壊するのは自明で、これは必然の事態でした。この時点で、学校には二つの選択肢があったと思います。一つは、外部の力も借りて子どもたちを統率する一定程度の規則・システムを作るという選択、もう一つは、丸腰であっても教職員の努力によってこの問題を解決していくという選択。学校は、後者を選びました。

 

学校制度のボトルネック②〈教員に求められるオールラウンド性〉

 学校教育のシステム上の問題をもう一つ示します。周りくどい説明になりますが、例えばレストランを経営し、従業員が10人いたとして、例えばキッチンに6人、ホールに4人というような役割分担をすると思います。おそらく10人全員にホールとキッチンの両方をさせるということはしないでしょう。つまり、1組目の客が来たら、一人目のスタッフが席への案内、お冷やとメニューの提供、注文を聞き、調理をし、レジを打ち、食器を下げ、洗う。次の客には二人目のスタッフが同様に全てを行うというようにです。10人の従業員をすべてこなすオールラウンダーに育て上げるというのは一つの理想かもしれませんが、現実的ではありません。しかし、それをやっているのが学校の指導システムです。

 教員の業務を大きく分類すると教科指導、生徒指導、事務的作業となります。戦後の制度発足当時は、この3つのウエイトは教科指導が圧倒的で、生徒指導と事務的作業はかなり少なかったのではないかと思います。しかし、昭和の終盤から生徒指導のウエイトが徐々に上がり始め、平成に入ってからは生徒指導の上昇が止まることなく、教科指導も事務作業も増えているというかなりひどい状態です。

 教員の定数は教科指導を軸に定められています。1学級40人、小学校は学級担任、中学校は教科担任という基準に則って、それぞれの教室で学習指導を行うにはどれだけの人員が必要かという計算です。しかし、子どもは問題行動を起こす生き物であり、しかも40人以下を基準とした多人数を一定の空間に押し込めている時点で、問題を起こすなという方が無理です。学校には前述のように、それを「規準と罰」によって抑制するシステムもありませんから、秩序維持には相当なエネルギーが必要です。そのための人員はほぼ配置されていません。

 例えばレストランで、料理をしている最中にお客さんから「お冷やください」「追加注文お願いします」「子どもがスープをこぼしてしまいました」と次々と声がかかると対応している間に料理がこげていたということにもなりかねません。授業をしていて一人の子どもが脱走したら、それを追いかけなければいけないので、授業どころではありません。そう考えると、教員は教科指導と生徒指導を同時にこなすというかなりアクロバティックな業務をしていることが分かります。

 ではなぜ、ここに人が配置されないのでしょう。それは、財務省が教育予算を出したがらないという基本的な問題もあるのですが、原因は学校内部にもあります。教科指導&生徒指導というアクロバットやり遂げてしまう教員がいるのです。すると、すべての教員に「それを目指してがんばれ」と求める構図ができます。さらにそのような優秀な教員が学校のリーダーになりますから、「自分はできたから誰でもできる」「自分のように努力しろ」という運営になります。それは一つの望ましい姿とも言えるのですが、何の疑いもなく全員がそこに向かってしまっているため、構造上の問題も明らかにならず、人員も予算も措置されません。

 もしあなたがレストランの経営者だったとして10人の従業員をすべてこなせるオールラウンダーに育てると考えれば、それによって生じる問題点は容易に想像できるでしょう。多大な研修コスト、従業員の短所の顕在化と長所の抑制、客へのサービスのムラ、クレームの増加、離職の増加・・・。最後の離職の増加はさらなる研修コストの増加へとつながり、負のサイクルができあがります。負のサイクルができると、あとは消耗戦で、原資が尽きて倒産するまでやるしかありません。今、学校に起こっている問題はこのレストランに想定される問題とほぼ相似形です。学校は完全に多忙とサービスの低下と人材不足の負のサイクルに入っています。レストランと違うのは学校には倒産がなく、教員が長時間労働で倒れるまでやるしかないというところです。

 

学校制度のボトルネック③〈感情が制度を上回る〉

 ここまで示した〈秩序維持の脆弱性〉〈教員に求められるオールラウンド性〉という2つの問題点は制度のスタート時には問題とはならなかったのですが、時代の変化と共に弱点が顕在化していきました。残念ながら、それに対応するためのシステムの再構築が行われず、場当たり的な対処に終始しました。学校にはそんな、場当たり的な対処を許してしまう、独特の「習性」があります。

 例えば朝ごはんを食べてこない子がいたとします。元気がなく、学習に対する集中力もありません。そこで、担任がこっそりおにぎりを与えてみたところ、その子の授業態度が一転してよくなったという話は実は学校ではよくあります。担任がおにぎりを作って子どもに与えるのは、ルール違反です。食中毒、アレルギーの危険性、公教育の中で私費を特定の子に投じることの是非など決して公にできることではありません。しかし、学校ではそれが何となく黙認されてしまいます。本当であれば、行政の厚生担当などが、家庭訪問をして改善の対策を取ればいいことなのですが、学校がルールを超えて「解決してしまう」ことで行政の改善のチャンスを失います。感情が制度を超え場当たり的な対処を許してしまうことでシステムの再構築の機会を逃しているのです。

 部活動も本来の制度をはるかに上回る活動になっています。本来は教育課程外の「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」ものなのに、練習から大会まで完全に大人主導で行われています。部活動にかかわる教員の中には月に100時間を超える時間外勤務をしている人も多く、本来の制度を超越しています。

 子どものためにおにぎりを与えたい、部活動を長時間やってやりたいという「感情」が、本来の制度を上回ってルール違反の状態を作っても、それをよしとしてしまうのは学校教育の「習性」です。

 これらの問題の背景には、通称「給特法」と呼ばれる、教員に時間外勤務手当を支払わないとする法律の存在もあります。給特法は「教員聖職論」と親和性が極めて高く、「子どものため」というマジックワードによって教員の労働時間を押し上げ続けました。

 それぞれの教員がそれぞれの「子どものため」をもっているため、あらゆる分野で制度を超えるとりくみが発生し、膨れ上がりました。行事や部活動はもちろん、あいさつ運動、体力づくり、読書推進、メディア時間、家庭学習、ボランティア・・・。もちろん反対の声も上がるのですが、「子どものため」というマジックワードは最後にどんな提案も押し通す力があります。

 テレビドラマの熱血先生が子どもに寄り添うために時に常識を逸した行動に出る姿もこの傾向を後押ししたと思います。

 学校は校内暴力をきっかけに、保護者・地域からの信頼確立・信頼回復が大命題となり、サービス業化していきます。その中で、保護者や地域から制度を上回るような要求があっても、それを受け入れることになります。例えば、保護者から「うちは共働きで二人とも早く出勤しなければいけないので学校を7時に開けてください」というような要求があった時に、多くの学校はそれを受け入れてしまいました。教職員の出勤は大抵8時以降ですから、制度に合っていません。例えば、同じような要求が市役所やスーパーマーケットで通用しないのは誰だって分かっているのですが、学校は感情が制度を上回ることを保護者・地域も合点しているのです。

 学校は、内部からも外部からも、「子どもたちのため」というマジックワードによって恣意的に変えられていきました。そして、その多くは教職員への負担という形で押し寄せました。結果として、教育の質の低下を招き「子どもたちのため」になっていないというパラドックスに苦しんでいます。

 

3つのボトルネック〈秩序維持の脆弱性〉〈教員に求められるオールラウンド性〉〈感情が制度を上回る〉に共通しているのは、どれもそれが「当たり前」で済まされてきたという点です。つまり、「先生が子どもを統率できるのは当たり前」「先生は何でもできて当たり前」「先生は子どもたちのためにがんばって当たり前」という非現実的な「当たり前」が、学校外部だけでなく学校内部でも共通認識になってしまっていました。そのため、何か問題があっても原因を全て教員に帰着させて、根本的な解決を見ることなく、傷口を広げ続けてきました。

 逆に言えば、「子どもたちの問題行動を教員の努力だけで抑えることは不可能である」「教科指導も生徒指導もオールラウンドにこなす教員で学校を運営するのは不可能である」「それぞれの思いではなく制度に従って学校を運営しなければいけない」という視点に立てば、これからの学校のすすむ道は自ずと明らかになっていくのではないでしょうか。そこにある学校は、「子どもたちの問題行動の多発」「学力格差」「教員の長時間労働となり手不足による教育の質の低下」などの様々な教育問題に対応しうるものになっていくと思います。

  

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質

 

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

 

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を

 

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 

【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか 

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【コラム10】コロナ×学校の働き方改革③ 〜子どもたちの学びをフルモデルチェンジするのは今しかない〜

3月の休校時に、「だれが子どもを預かるのか」ということばかりが問題として取り上げられて、子どもたちから学習の機会が失われたことがマスコミ上でほとんど問題になりませんでした。「学校に勉強を教える機能はそれほど期待されていない」ということが浮き彫りになり、私にとってはかなりの衝撃でした。
4月に入り、保護者から「学校からプリントしか出ない」「プリントさえ出ない」という声が上がりましたが、それは学習の機会というより、時間をもてあます子どもたちの対応に苦慮しての声が多かったようです。3月の初めから5月の終わりまで、ほとんど学校が休校していた地域と、ほぼ通常通り行っていた学校があり、その格差も、指摘はされてもそれほど大きな問題にはなっていません。
もう一つ、大きな課題として明らかになったのは、子どもたちが自分で学習をすすめる力を学校も家庭も全く育ててこれなかったことです。
学校ではもう30年以上も前から「自ら学ぶ子どもの育成」が掲げられながら、勉強のやり方も楽しさも教えられないままここまで来ました。そして休校中も、家庭にプリントを配布したり、ビデオ授業を撮影したりと「与える」教育を続けています。
今、AIやロボットが様々な仕事を人間から奪っていく中で、自ら考えて、自ら学び、付加価値を生み出せる人間を育てることは急務です。そんな中、学校の教育機能が期待されておらず、学校も必要な力をつけられていないという憂うべき事態です。


一言で「教育機能は期待されていない」と言っても、保護者の意識も様々でしょう。学校とは別に教育できる環境を整えているから学校には期待していないという保護者もいれば、「勉強より大切なものがある」という考えから学校に期待していない保護者もいるでしょう。また「期待はしているが、今はそれどころではない」という保護者もいるでしょう。
今の社会では勉強が苦手ということよりも、社会性が育っていないことの方がリスクが高いようにも思えます。例えば、コミュニケーションが苦手なことによって引きこもりになってしまったらどれだけ勉強してもその力を発揮する場が失われてしまいます。保護者が、行事や部活動に期待するのも、そういう面があるからと予想できます。


一方で、今の日本社会には新たなリスクが高まっています。
それは「格差」です。
学歴によって生まれる生涯賃金の格差は億単位です。大学を卒業したと言っても、一流大学とそれ以外ではやはり億単位の格差があります。正規・非正規の格差はもっと大きくなります。そして子の学歴は親の学歴や収入、生まれた地域などに影響を受けることが明らかになっています。格差は世代がすすむにつれさらなる格差を生みます。
今後さらに格差を広げるであろう要因が、AIとロボットの進化です。これらは間違いなく人間の働き手を駆逐していきます。職に就けるのは付加価値を生み出せる人間です。付加価値とは単なる思いつきではなく、確かな知識に裏づけられた思考力や創造力です。私は今ほど勉強が大切な時代はないと思います。


また学校が育てている社会性も、同調圧力に従うことが大部分で、対話によって問題解決したり、人間関係を調整するような高度な社会性を学ぶ機会はほぼありません。グループ学習の様子を見ていれば分かりますが、どのグループにもリーダーになるような子がいて、一人でどんどんすすめ、後はお客さんになりがちです。それではダメだと教員も分かっているのですが(いや分かっている人は分かっているのですが)、グループがいくつもあると対応しきれないです。今、形だけのアクティブラーニングが学校に入ると、学力もリーダー性もさらなる格差を生みます。
保護者や社会は、行事や部活動の中で子どもたちの社会性が育まれていると思っているかもしれませんが、多忙な学校は子どもたちに問題解決の機会をそれほど与えられてはいません。むしろ、できるだけ問題が起こらないように場を設定し、問題が起これば素早く指導者が解決してしまいます。例えば、子どもが喧嘩をしても、自分たちで話し合って解決するのではなく、教員が聞き取り、仲裁して、最後は握手をして「解決」の形を取ります。解決の形に落とし込まないと、保護者のクレームに対応できないからです。
昭和の時代には多くの教室にもあった「議題ボックス」は姿を消しました。議題ボックスとは、学級会で話し合ってほしい学級の問題を書いて入れる箱です。姿を消したのは、子どもたちが自分たちの問題を自分たちで解決するだけの時間が取れないからです。下手をすると学級会まで担任の司会で行われる様子もよく見られますから、子どもたちの自治性など育てられるわけはないです。
こうして考えてみると、子どもたちに十分な力をつけられない原因として浮かび上がってくるのが、教員の多忙です。
ある調査によれば教員の最大の悩みは「授業の準備をする時間がない」です。小・中・高すべての校種でワースト1です。準備不足の授業の被害者は特に低学力層です。分からない子に勉強を教えたくてもその時間がないというのは、すでに学校の正常な機能を失っています。教員が忙しいことで学力格差が広がるのです。


これから社会で自己実現を成し遂げるためには、AIやロボットにはできない「付加価値」を生み出せる力が必要になります。付加価値と言っても、知的な生産力、問題解決能力、人間関係調整力など多様です。そして、今の学校教育で育てられるのはごく一部です。結果として「才能」や「生まれながらの環境」をもつ人が自己実現を成し遂げていくことになります。
公教育はすべての子どもたちに社会活躍の機会を与える機能であるべきだと思いますが、その機能を失いかけているのです。


コロナ問題で、この社会が極めて不安定なバランスの上に成り立っていたことが露呈しています。非正規や個人事業主が生きる環境を国がまったく支えていません。このような政治や経済の問題は教育の問題とは別のところにあると考えられがちです。
社会の格差を縮める方法は2つあると言います。戦争と教育です。そうなると教育にしか格差を縮めることは期待できないということになります。しかも現在のように知識を詰め込み、従順に行動するように育てるだけの教育では格差は縮まりません。
そもそも思考力や創造力を教育することができるのかという問題も実は解決されていません。算数の応用問題を解く場合も、ノーヒントで答えられれば思考力を発揮していると思われますが、やり方を教えてもらった時点でそれは「知識・理解」の領域の力になります。全く別の応用問題が出てきた時に、前に学んだ知識を活用できればそれは一つの応用力と言えますが、それができない子にいったいどうすれば応用力を身につけさせられるのかという問題は、残念ながら今の学校教育では議論にさえなっていません。
文部科学省が立ち上げたGIGAスクール構想も、子どもの思考力や創造力を高める最も大切な部分には悲しいくらい無策です。確かに個別最適化された学習によって短時間で知識や技能の部分を習得できれば、考えることに費やせる時間は増えるでしょう。でもどうやって思考力や創造力を高めていくのかという部分は、得意の「学校丸投げ」になるでしょう。これは、一人一端末で解決できるような単純な問題ではないです。


私の計算では4月半ばから5月末まで休校があった場合、小学校高学年、中学校で約180時数の消失があります。今後、この消失を埋めるために、行事の削減や長期休業の縮小、土曜授業、7時限目の導入などが行われると思いますが、数字合わせに腐心し、「どんな子どもを育てるのか」という議論が飛ばされると、今生まれた学校教育の見直しのチャンスも水泡に帰するでしょう。


子どもたちに実社会で生きて働く力をつけることが必要なことは昭和の臨時教育審議会からの課題だったのですが、平成の30年間、学校は昭和から進化できないままの教育を続けました。
コロナ問題で社会の脆弱性が明らかになった今、未来に向けてどんな教育が子どもたちに必要なのかをしっかりと議論することが必要です。小学校では新学習指導要領が施行される年となり、英語やプログラミングに翻弄されていますが、今、子どもたちにつけなければいけない力を教員が見据えていれば「何を学ぶか」はそんなに大きな問題ではないと思います。行事も今までのようにただ量をこなし学びの薄い方法から、少なくても子どもたちが社会性や問題解決力を高められるやり方に移行する必要があります。

今、学校が取りうる方法は大きく2つの方向があります。一つ目は、今まで通りの行事やとりくみをコロナ対策をしながら可能な限り実施していく方法。二つ目は、今までの行事やとりくみをゼロベースから見直し、これからの社会を生きる力を育てることに集中する方法です。前者の方法では、教員の多忙は変わらず、子どもたちがつける力もこれまで通りのものになるでしょう。後者はまさにフルモデルチェンジです。一時的には大変な作業になるかもしれませんが、結果として子どもたちに豊かな学びをもたらす可能性が残されています。学校の働き方改革は「格差」というリスクを跳ね返すためにも何としても成し遂げなければいけない大きな壁であり、今、その最大のチャンスです。

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【コラム9】コロナ×学校の働き方改革②

前回は家庭教育力の低下について書きましたが、今回は地域や行政の教育力についてです。


学校に子どもへの教育機能を一極集中させた日本型学校教育は、今回のようなトラブルがあった時に一気に子どもたちの学びを停止させてしまう可能性があります。
文部科学省が推進しているこの日本型学校教育は教育基本法とも相容れません。


第13条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。


このように教育基本法は社会全体で子どもたち(を含めた国民全体)の教育をすすめていこうという方針なのです。


しかし、地域の教育力は明らかに低下しています。例えばどこかの団体が子ども対象のドッジボール大会を行う時に、自分たちで子どもたちを集めて練習をしたり、チームを作ったりということが難しいために学校単位で募集をかけます。学校は子どもたちの活躍の機会を消滅させることができず、希望者を集め、チームを作り(人間関係もありこれすら簡単なことではない)、休み時間や放課後に練習を見ることになります。大会当日は教員が休日返上でボランティアで引率と指導もしなければいけません。ラグビーやホッケー、野球、バレーボールなどを子ども向けに簡易にしたニュースポーツの大会が一斉に学校にもち込まれた時期があり、十数年、「惰性」とも思える状態で毎年開催されます。最初は各団体から指導者が来て、子どもたちの練習を見ていましたが、軌道に乗ると募集要項だけで指導者は来なくなりました。地域のスポーツ振興を学校が請け負う形になっています。

学校再開後、学校は失われた授業の取り返しに全力を上げなければいけません。社会教育を支援する余裕はありません。学校を頼っていた団体は学校の手を借りずにそのイベントの運営をしなければいけません。自力では成立させられずにイベントが消滅すれば社会の中で子どもたちが学ぶ場が減るということになります。

学校の支援がなければ危機となる社会教育の場は様々です。

【具体策11】でも書きましたが、絵画、感想文等の作品募集も学校経由でなければ成立しません。学校に出せば自動的に作品が集まり、出品の用件にすれば名簿も学校が作ってくれるため、企画も工夫する必要がないし、賞品にお金をかける必要もありませんでした。今年は、夏休みの期間が短くなり、おそらく宿題も相当減るため、多くの作品募集は危機となるでしょう。
20年前に学校が週5日になった時に、公民館が土曜日に子どもたちを対象としたイベントを立ち上げる動きがありました。最初は公民館が独自で行っていましたが、子どもたちが言うことを聞かなくなると学校にSOSを出し、学校もそこに教員を向かわせました。教員がそこで指導することで、公民館は子どもたちを教育する力を失っていきました。私はそこでSOSを出すのはPTAであってほしかったと思います。そうすれば地域と親で子どもたちを教育する力が保てたのではないかと思います。
地域の祭り、フェスティバルなどのイベントにも、子どもたちの歌や踊りの参加要請が学校にあります。今年はお断りするという学校は多いでしょう。言葉は悪いですが「客寄せパンダ」的な意味でも、イベントを支えています。私はPTA経由で子どもたちを集めて、子どもたちが自己紹介をするだけでも十分だと思います。「ああ、あの子が〇〇さん家の孫ね」というように子どもたちと地域の顔がつながれば大規模災害の時に避難所に集まった時にも安心です。
地域の伝統的な踊りをいつしか学校が指導することになった地域では、学校統合で地域から学校がなくなると指導する者がいなくなり、踊りそのものが受け継がれなくなりました。
それとは逆に指導力を保っている社会教育もあります。地域差もあるかもしれませんが、私の住む地域ではスポーツ少年団は地域の指導者が連綿と子どもたちの指導に当たっています。少子化で数は減りましたが、指導体制はしっかりとできています。親も(個人差はかなりあるようですが)休日返上で活動を支援しています。「その気」があれば教育力は保てると思います。


本来、社会教育の役割でありながら、学校が請け負っている顕著な例が部活動です。現在の部活動は学校教育の範囲を超えて、スポーツ・文化振興や競技力強化の役割を担っています。(「部活動は学校の役割だろう」とお考えの方も多いと思われるので多少詳しく説明します。)

学校教育における部活動の位置づけは学習指導要領に示されています。


「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際、地域や学校の実態に応じ、地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。」


「学校教育の一環として」と示されているものの、教育課程外の活動であり、学校には「しない」という選択もあります(現実的にはしない選択はかなり困難ですが)。そもそも学校施設は部活動をするように設計されていません。グラウンドでは野球部とサッカー部と陸上部がひしめき合い、体育館は曜日で割り振りが定められたり、地域の体育館が練習場所になったりします。学校のグラウンドも体育館も体育や行事を行うための設計でしかないからです。雨の日は廊下を走ることもあります。ガラスにぶつかって大怪我をした事例もあると聞きます。
この「学校教育の一環として」という文言は平成24年から学習指導要領に記されました。しかし、施設が拡大されるわけでもなく、用具に予算がつくわけでも、人員が配置されることもなく(近年わずかに部活動指導員が入りましたが)、学校に「丸投げ」というのが現状です。丸投げされた学校は部活動を運営するのに、教員の長時間労働に頼るしかありませんでした。
また先の学習指導要領には「地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行う」と示されていますが、なかなか進まない理由の一つに大会参加の問題があります。中学校の部活動の大会を取りまとめる中学校体育連盟は学校教育外の任意団体ですが、大会引率者の条件を顧問の教員に限定しているからです。そして、大会が行われる土日には教員がわずかな手当で長時間の拘束を受けることになります(教員は法律で時間外勤務手当を支払われない制度になっています)。また大会運営も教員に割り当てられており、担当になった教員には相当な業務量があります。審判の資格を自費で取らなくてはいけなかったり、数万円のユニフォームを購入しなければいけなかったりと、かなりの無理を押し通しています。仮に教員以外が引率できたとしても、わずかな手当でやってくれる人材はどれだけいることでしょう。
本来は「野球やりたいやつ集まれー!」と放課後に同好会的に行うのが部活動の制度でしたが、全国大会を頂点とする大会参加を行った時点で、勝利を目指す色合いが強くなってしまっています。一時期、総合型地域スポーツクラブにその役割を移そうという動きもあったのですが、事故があった際の責任の所在や、教育的な効果を守ろうとする教員の意図があったため、なかなかうまくいきませんでした。
近年、文部科学省は「将来的には,部活動を学校単位から地域単位の取組にし,学校以外が担うことも積極的に進める」と示していますが、その受け皿がない地域も少なくありません。もしスポーツ少年団のように、最初から地域が受け皿になっていたら、地域のスポーツ・文化の教育力はまだまだ健在だったかもしれません。
今回のコロナ問題では、スポーツ活動も文化活動もすべて停止したため、部活動の一局集中は問題にはなりませんでしたが、もしも学校ではない組織が部活動を運営していたら、子どもたちによりよい情報(家庭でできる運動指導や演奏・絵画等のオンライン指導)が提供できたかもしれません。


次に、行政の教育力について考えます。行政の教育力という言葉に違和感をもたれる方もおられると思いますが、例えば、「三密」という言葉も行政が国民を教育するために使ったと言えます。よりよい社会を作るためには行政の国民教育力は欠かせません。そして、その教育が学校を経由して行われることが非常に多いです。環境教育、人権教育、消費者教育、防災教育、政治教育・・・などの「◯◯教育」です。環境問題を何とかしなければいけないというのであれば、政府がCMを作ってゴールデンタイムに放送するとか、エコ企業と協力してイベントを開催するとか、学校で行うとするなら専門の指導員を養成して派遣するなど様々な方法が考えられますが、十分な予算も人員もつけずに「◯◯教育」という形で学校に求めてきました。
再開後の学校は学習指導要領で定められた内容をこなすのに精一杯でとても「◯◯教育」に手を回せる状態ではありません。行政は失われた「◯◯教育」の対策をどうするのでしょう。何もしないとすれば、そもそも「する必要はなかった」ということになります。
富山県では県教委主催の「科学オリンピック」という県下の小・中・高校生を対象とした難問の大会(自主参加)がありますが、この問題作成や採点は委嘱を受けた教員が行います。このように、行政の企画でありながら、学校現場の手を借りなければ実施できないものも多々あります。多くの自治体で「子ども県議会」「子ども市議会」が行われていますが、これも代表児童を教員が指導してから引率する形が多く、教員抜きでは成立しません。
コロナ問題を機に、行政も学校教育に頼らずに国民教育やイベントを行う力をつけてもらいたいです。


いったん失われた教育力を再び戻すことは簡単ではありません。時間もかかるでしょう。しかし、教育基本法に示されてる「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」という条文の目指す姿を改めて考え、「教育に関することは何でも学校に」という日本型学校教育を見直すきっかけになればいいと思います。みんなで子どもを育てる意識がある方が間違いなく「子どもたちのため」になるからです。

まず、学校が「断る」「切り離す」「任せる」ことが大切です。これが最も難しいことで、「授業」の優先順位が高まった今しかできません。

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【コラム8】コロナ×学校の働き方改革①

新型コロナウイルス感染防止対策(以下「コロナ対策」「コロナ問題」)によって、学校の働き方改革の問題は消し飛びました。むしろ、「子どもが学校に来ないのに先生は何をやっているんだ」「授業をしていない先生に給料払うのか」という、いつもながらのバッシングさえ起こっており、今、学校の働き方改革について発言することはリスクさえ伴います。

しかし、こんな状況でも声を上げなければいけないのは、今後、急激な教育改革が行われるかもしれない中で、教育の持続可能性が考慮されなければ、その被害を受けるのは子どもたちだからです。


結論から言えば今回のコロナ問題で明らかになったことの一つに「日本型学校教育」の脆弱性があります。日本型学校教育とは、子どもの教育の学校への一極集中です。文部科学省のサイトには次のように示されています。


・学校教育はいずれの国においても重要な社会システムであるが,日本と諸外国の学校の在り方は大きく異なる。諸外国では,教員の業務が主に授業に特化しているのに対し,日本では,教員が,教科指導,生徒指導,部活動指導等を一体的に行うことが特徴となっている。
・これは,日本の学校が,それぞれの時代において社会の要請に応えながら,子供たちに必要とされる資質・能力を育むことができるよう発展してきた姿であり,こうした「日本型学校教育」は,国際的にも高く評価され ,学力面では,OECDPISA調査等の各種国際調査を通じて世界トップレベルとなっているとともに,勤勉さ,礼儀正しさなど道徳面,人格面でも評価されてきた。このようなことから,「日本型学校教育」の海外展開が要望されるようになっている。今後も,このような「日本型学校教育」の有効性が生かされることが重要である。


日本型学校教育は、確かに子どもの育成という面では一定の効果があることは間違いないのですが、大きく2つの問題があります。
1つ目は、教員への負荷が高すぎることです。現在の教員定数では、かなりの長時間労働を行わなければ日本型学校教育の実現はありえません。
2つ目は、家庭教育力、社会教育力が低下するということです。ですから、今回のように学校が機能停止になると子どもたちへの教育のほとんどが停止してしまいます。この2つ目の問題については多くの方にとって盲点になっているのではないかと思います。


私は平成元年に教員になりました。この30年余りで子どもにかかわることは何でも学校に求める風潮が高まりました。行政は様々な「◯◯教育」やコンクールを学校に持ち込みました。地域はイベントへの参加を学校に求めました。部活動は過熱し、顧問は土日も休むことなく指導に当たりました。保護者は本来家庭教育が担う範囲まで学校に求めるようになりました。
学校はそういう要求を断る選択肢は与えられていないため、多くを受け入れ「子どものことはすべて学校」という風潮を自ら高めていきました。
私は15年ほど前から、このままでは地域や保護者の教育力は低下してしまうのではないかという危機感をもちながら状況を見ており、実際に低下していく様を確かめてきました。


今回はまず家庭教育に絞って話をすすめます。


今、家庭の教育力・意識が弱くなっていることは学校に寄せられる保護者の言葉に現れています。
「先生、うちの子家に帰ってもゲームばかりしているのでもっと宿題を出してください。」
こんなふうに言われると、「ゲームを買ったのはご両親じゃないですか」と言いたくなりますが、ぐっとこらえます。子どもにもっと勉強してほしいと思うなら、問題集を買ってきて、横について一緒にやればいいのですが、嫌がる子どもをしつけることは時間も手間もかかります。最も簡単な解決方法は担任に「もっと宿題をたくさん出してください」と迫ることになります。ある6年生の保護者は「中学校に行くと課題がたくさん出て、小学校のうちに家で勉強する力がついていないとついていけなくなるんです。中学校で落ちこぼれたら先生のせいですからね」と迫ったそうです。学習指導要領には「家庭との連携を図りながら,児童の学習習慣が確立するよう配慮すること」と示してあるように、家庭学習の主体者は子どもと保護者であり、学校はあくまで補助的な立場になります。
「家に遊びに来る友達が冷蔵庫の中から飲み物を出して飲んだりお菓子を食べたりするので学校で指導してください」
「玄関の靴も脱ぎ散らかして入ってきます」「挨拶もしません」「私が言ったって分からないように個別に注意するのではなく全体に指導してください」と追加注文がつきます。確かに、よその子に注意をすると後で我が子が被害を受けたり、親同士がギクシャクしたりとはばかられる気持ちも分かります。私も学校現場にいた時は、要求に応じて子どもたちに指導したり、学年だよりで呼びかけたりしました。しかし、こうやって学校が学校外の問題にまで登場することで、保護者が学んだり経験したりする機会を失わせているのだろうなという反省はありました。
「家ではニンジンが食べられないので給食で食べられるように指導してください」
学校の給食指導は「楽しく会話をしながら」が基本ですが、栄養摂取や残食抑制にこだわりすぎる教員が一定数おり、未だに昼休みになっても給食を食べさせていたり、担任が無理やり口に押し込んだりするような指導があると聞きます。偏食指導は学校の領域ではないのですが、やる先生がいることで、頼る保護者が現れ、実際に食べられるようになる子が出ることで、「あの先生は指導してくれた」という実績ができ、親は偏食指導は学校でと頼ってしまいます。
「うちの子が学校で言うことを聞かないのは、子どもとの人間関係を築けなかった先生のせいだ」
学級崩壊などで苦しんでいる先生方からの話で最近よく聞くのが保護者の協力が得られないということです。昨今、学校で生じた子どもの問題行動はすべて学校の責任のような捉え方が一般的になっているのではないかと思います。しかし、学校が適切な指導を繰り返しているにもかかわらず、いじめや暴力行為、破壊行為をしたら(状況にもよりますが)それは保護者の責任です。民法714条には「責任無能力者を監督する法廷の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に与えた損害を賠償する責任を負う」と定められているからです。実際の判例でも学校の責任を否定しつつ保護者の責任を認めたものが多くあります。
「これからはスマホのトラブルは保護者の責任になりますよ」
これは保護者ではなく中学校の校長先生が入学説明会で言った言葉です。その時に、保護者が急に真顔になって会場がざわついたそうです。かつて子どもが携帯電話をもつことに学校はかなり難色を示しましたが、内外からの声によって認めざるを得ませんでした。その時に「親子の約束の上で与え、責任は保護者がもってください」とお願いするのが妥協点でした。しかしその後、スマホのトラブルはそれが帰宅後に行われていたものであっても指導は学校が行うことになり、生徒会で「◯◯中学のスマホ10か条」を考えさせなければいけなくなりました。


このように家庭の教育力と意識が低下していくのを学校はもちろん問題視はしていたのですが、教職員自身の意識の中にも「それは学校の役割」と疑わず、宿題を大量に出したり、偏食指導に力を入れたり、問題行動を一手に引き受けたりした面があり、教職員の意識も保護者の意識も相乗的に偏っていきました。


今回のコロナ対策でも、「勉強は学校」という意識が強すぎないかと私は思います。
ネットに現れている保護者からの声は
「プリントが2、3枚出ただけであとは音沙汰なし」
「プリントはたくさん出るが、親が丸つけをしなければいけない」
タブレットの支給はうちの市ではないのか」
「はやく遠隔授業をしてほしい」
というものが多く、「待ち」「受け身」の姿勢が強いように思えます。
もし学習に対して学校と家庭が連携してすすめる体制ができていたら、現在の家庭学習の進め方もかなり違ったものになっていたのではないでしょうか。例えば、プリントは子どもに対してではなく、保護者に対して出すという方法も考えられます。保護者に「教科書◯ページの新出漢字を正しい書き順で書けるように教えてください。その後、プリントで練習をさせてください」というような課題の出し方であれば、おそらく今より充実した学習がすすめられていたと思います。
このように書くと、おそらく「それができない家庭はどうするんだ」という反論があると思います。逆に言えばそこに集中してタブレットWi-Fiを配置するとか、福祉課が支援に入るなどの方法もあると思います。
確かに在宅勤務をしながら子どもの学習をみるのは簡単ではないと思います。通常勤務で昼間は子どもを見られない家庭もあるでしょう。しかし、1日30分子どもに向き合うだけでも、子どもたちの学びは確実に前進します。
ある先生が学童保育の見守りに行くと、1年生の子どもが「8」の練習をしていて、3の逆と3を組み合わせて書いていたそうです。2年生の子は繰り上がりの筆算(未習)をやっていて17+5を112と出していたそうです。共に、保護者がちょっと寄り添えば回避できるはずです。


私は保護者がもっている潜在的な教育力はかなり高いと思っています。4月当初に学校から出る大量の調査書等を提出したり、算数セットのパーツの一つ一つに名前シールを貼ったり、図工の材料をお願いするとどの家庭でも精一杯集めてくれたりします。自分がやるべきという意識があれば、行動に移せる家庭は私の印象では9割以上あります。現実的には、経済格差、生活時間の中のゆとり、育児に対する意欲など、様々な障壁はあります。しかし「だから学校がすべて」ではなく、家庭を支援する行政の機能を充実させる方が大切だと思います。


教育基本法には次のようにあります。


第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

第13条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

 

本来、子どもを教育する主体者は保護者であり、学校は保護者と共に子どもを育てるパートナーです。
もし今、学校から保護者へ「お子さんの勉強を見てください」とお願いしたら、学校バッシングすら起こりそうです。しかし、子どもの勉強を保護者が見る必要がないと考える社会は正常とは言えません。そしてこの状態を生み出してしまったのが日本型学校教育です。
今、子どもたちの学びが停滞している中で、遠隔授業や双方向通信の活用に議論が向いています。私はそれを否定するわけではないし、これからの教育に必要であると思います。ですが、それと同時に、子どもたちの学びをすすめるのは学校だけではなく社会全体だという意識をもつことも大切だと思います。そして今、その大きなチャンスなのです。

 

(今回の記事は特に保護者側の立場の方からご批判もあろうかと思いますが、いろいろな立場の方から学びながら自分自身の考えをアップデートしたいと思いますので、忌憚のないご意見をいただければ幸いです。) 

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【コラム7】コロナ休校で見えた教育の3つの問題

新型コロナウイルス感染症に伴う公立学校の一斉休校は、社会全体に衝撃を与えました。その衝撃の大部分は「子どもを誰が預かるのか」という問題でした。私は共感できる部分がありながらも、かなり斜めの視点からこの問題を分析していました。そして、現在の学校のあり方に3つの問題を感じました。

 

《問題1 子どもの学習の機会の喪失に無関心な社会》

まず、驚かされたのは、子どもたちの教科学習の機会が失われたという問題が「何の議論にもならない」点です。
私は一斉休校の話が出た時点で「終わっていない勉強どうするんだ?」とまず思いました。結論として文科省は、4月になって教えてもよい、そのために授業時数を増やすことはないという方針を示しました。しかし、この方針はおそらくほとんどの人(教員を含む)が目を通していないでしょう。言ってみれば「勉強なんてどうでもよい」のです。もっと言えば教員に勉強を教える機能はそれほど期待されておらず、教員自身もそこに強い使命を感じていないということになります。
私個人としては、戦後70数年の中で、今ほど勉強することが大切な時はないと思っています。AIやロボットが単純作業を人から取り上げて行く中で、付加価値を生み出せる人に報酬が偏っていくのです。付加価値を生み出せる10%とAIやロボットのおこぼれにあずかる90%。そして上位10%が富の90%以上を得る世の中にすでに移行しつつあります。そして、この格差を是正できるのは教育だけなのです。教育の力を過小評価する国が向かう道は極めて険しいです。

 

《問題2 学校に期待されていたのは保育機能》

同時に驚かされたのは、学校に期待されていたのは「保育機能」だったということです。ある市では早々に小学校1〜3年生を学校で預かることを表明し、預からない市町村は悪者か怠け者かのような見られ方までされました。臨時的な措置とはいえ、休校中に子どもを預かるのは学校の役割ではありません。教員の業務は「児童・生徒の教育」であり「保育」ではないからです。「教育」は、教員免許をもった者が行う計画的なカリキュラムに則った営みです。学校が子どもを一時的に受け入れる場を提供するのは分かりますが、子どもの保育を行うのは市町村から派遣された人員であるべきです。文部科学省は、教員が学童保育を支援することが可能であるとの見解を示しました。可能かもしれないが適切ではありません。学童保育指導員の採用には、教員免許も保育士免許も必要ありません。教員でも可能だというなら、市長でも教育長でも可能です。教員を「何でも屋」にしてきたことで教員人気の低下を招き、子どもたちに充実した教育が困難になっている状況を考えると自殺行為です。

もう一つ言えば、保護者が子どもを見られない背景には非正規雇用の拡大による、収入格差の問題があります。「なぜ昼間に子どもの面倒を見られない親がいるのか」「なぜ子ども食堂が必要なのか」など根本的な問題に目を向けなければいけないのに、目先の問題から発展しなかったのは非常に残念です。

 

《問題3 自主性・自律性が育っていない子どもたち》

有り余る時間が与えられた時に、自分から「あんな遊びがしたい」「あんな勉強がしたい」と思える子を育ててこれなかったことが明らかになりました。さらに残念なのは、そのことがやはり「何の議論にもならない」ことです。

ゲーム、テレビ、YouTube、ゲーム、テレビ、YouTube・・・と時間をつぶす子、休校の意味も分からず繁華街へ繰り出す子と、教育が目指す自主的で自律的な姿からはほど遠いです。そしてその失敗を省みることもなく、学校は、大量のプリントを与え、抜き打ちの家庭訪問で遠隔管理をしようとしました。これではますます、目指す姿から遠のいてしまいます。

子どもが何かに興味を示した時に、それを支援できるのは保護者です。学校は個別の対応ができるほど時間や人員にゆとりはありません。子どもに「生き方」を教えるのも保護者の役割です。学校は、基本、週1時間ずつの道徳と特別活動、休み時間・給食・掃除・部活動等の中で、社会性の基礎の基礎を教える機能しかありません。しかも今の学校は子どもたちを「統制」しないことには運営できない特殊な環境になってしまっています。どうしても自主・自律とは反対の「黙って言うことを聞く」子どもを育てがちです。一方、家庭には、普段から我慢させる習慣がないし、興味あることに向かわせる余裕もないため、子どものコントロールができません。今回の問題をきっかけに、学校や家庭はそれぞれの役割の中で、子どもたちにどんな力をつけたいのかということを議論しなければいけないと思います。

もう一つ言えば、おそらく一部の子どもたちはこのような環境でも自分でやりたいことを見つけ、有り余る時間を有効に使っていたことでしょう。そして、高学歴の保護者ほど子どもたちが学べる環境づくりをしているという調査結果もあります。こうやって格差がまた開いていくと考えると恐ろしいことです。

 

今回の騒動をきっかけに、学校と家庭の役割とか、それを支える社会全体の機能とか、格差是正の必要性とか、子どもたちにどんな力をつけなければいけないのかなどと、本質的な議論に踏み込むよい機会だったのに、議論は行政や学校の「対応の是非」に集中しました。そこにあるのはお金の話(確かにそれは深刻だけど)や「思い出はどうなる」「子どものストレスが限界だ」というような二次的な問題が目立ちました。
教育は国家100年の計と言いながら、そうはなっていない現実から目を背け、うわべばかりを取り繕っているのなら、まさに亡国への道を歩むしかないのではないでしょうか。

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【コラム6】春名風花さん「いじめる側こそ学校に来ないで」から考えるいじめ対策の難しさ

春名風花さんの「いじめる側こそ学校に来ないで」という発言が拡散したのを受け、内田良さんが、「出席停止」制度の問題点を指摘しています。

Yahoo!ニュース『いじめ加害者の出席停止ゼロ件 夏休み明け「学校に行かなくていい」を考え直す』
https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20190831-00140620/

内田良さんは、いじめによる不登校が433.0件あるのに比べて、いじめによる出席停止が1.7件と極端に少ないことから、いじめ被害者の教育を受ける権利が侵害されている点を問題視しておられます。

一方、春名風花さんのツイートに対して「排除するな」「処罰するな」という批判も見られます。

非常に考えされられる内容でした。ちょうど、私の現在の関心が、「子どもたちの問題行動をいかに未然に防ぐか」という点にありますので、第三者的(とはいえ、学校内部の事情もよく知る)立場から、この問題について述べたいと思います。

 

アメリカの「ゼロトレランス
まず、本題からはやや離れますが、参考になる事例としてアメリカの問題行動対応について触れます。
幼少時から日米間を行き来しながら生活しておられる織井弥生さんのコラム「子どもの可能性を引き出す アメリカ最新教育事情」(2009〜2014)が学研のウエブサイトで紹介されています。この中でアメリカの学校における問題行動への対応が紹介されています。


『小学校低学年では、教師の指示に従わなかった子どもは、教室の隅に置かれた「タイムアウトの椅子」に座らされ、教師が再び席に戻ることを許可するまで、授業に参加することはできません。』
キンダーガーテン(日本の幼稚園年長に相当)では、3回注意されるまでは許容範囲ですが、それを越えると保護者に連絡が来るという決まりがあります。小1では、教師から注意をされる許容範囲が1回のみと、俄然厳しくなります。2回目の注意を受けた時点で、保護者に「今日、お子さんは○○の言動により、注意を2回受けたことを報告します。家庭でよくお子さんと話し合ってください」という内容のメモが発行され、保護者はその報告を確かに受けた旨のサインをし、翌日、教師に提出します。小学校中学年以降では、学校に居残りを言い渡され、説教されたり、反省文を書かされたりすることも珍しくありません。同様の問題が何回か続く場合は、保護者と教師との間で話し合いが持たれます。保護者は、問題となる行為について子どもと話し合い、家庭でしっかりと指導することを求められます。それでも解決しない場合は、校長と保護者とが面談をし、最悪の場合は退学を言い渡されます。』


https://hon.gakken.jp/reference/column/amerika/article/100414.html


このような指導を「ゼロトレランス」と言います。文部科学省のHPではゼロトレランス「学校規律の違反行為に対するペナルティーの適用を基準化し、これを厳格に適用することで学校規律の維持を図ろうとする考え方」と説明されています。この措置によって、アメリカは学級崩壊や校内暴力とは無縁のようです。

ただし問題もあります。二宮皓さんは「新版 世界の学校」(学事出版 2014)の中で、このような厳格な指導が「結果的に中退する生徒が増える状況に対する批判もある」としています。本書によれば、アメリカに限らず、様々な国でドロップアウトによる犯罪予備軍やひきこもりの増加が大きな問題になっています。ゼロトレランスは教育によってこそ救わなければいけない人を切り捨ててしまう性格をもちます。また二宮さんは、アメリカでも、いじめは大きな問題となっていると指摘しています。「12歳から18歳までの約28%がいじめを経験している(連邦政府による2009年の調査より)。」「いじめに対する法的措置は学区に委ねられており、他の問題行動と同様の処分(指導、停学、転学措置等)の対象となることが多いようである。」とあります。いじめに対してもゼロトレランスで対応しながらも、発生を抑えられない実態が伺えます。

アメリカで導入されているゼロトレランスは、日本でも一時期、文部科学省によって導入されようとしましたが、一般的にはなりませんでした。まだ未成熟な発達段階にある子どもに厳しい指導を徹底できる土壌がなかったのだと思います。部活動における厳しい指導の末に自殺してしまった高校生の例もあります。福井の中学校で厳しい指導の末に自死に至った「指導死」も記憶に新しいです。「ブラック校則」もゼロトレランスであり、今、強く見直しが求められています。
出席停止はゼロトレランスなのでしょうか。建前は子どもに対するペナルティではなく、「保護者が出席させることを禁じられる」という措置です。懲戒でないとは言え、結果的にペナルティと同様の対応となっており、ゼロトレランスであると私は考えます。

「空気」で指導する日本

アメリカの「ゼロトレランス」に対して、日本はどのように子どもたちを指導しているのでしょう。私たちはあまり意識していませんが、そこには「空気」=同調圧力の存在が色濃いです。「学校には行くものだ」「授業はちゃんと受けるものだ」「給食は残さず食べるものだ」という前提で「みんなやっているから」という同調圧力=「空気」を発生させることで、子どもたちを一定の方向に導きます。「空気」は学校に限らず日本のあらゆる場面で発生する「暗黙の行動規則」です。「空気」と言われると弱々しい印象を受けますが、日本全体を太平洋戦争に巻き込んだのも「空気」だと言われれば、その威力が分かっていただけると思います。

ここで言う「空気」は1977年に山本七平さんが著した「『空気』の研究」で述べられているもので、日本の社会全体の規律を支えていると言えます。日本に犯罪が少ないのも「空気」の力が大きいと解釈できます。

ただし、教員の作る「空気」の圧力には限界があります。いわゆる「空気を読めない子」は同調圧力を容易に突破します。子どもたち同士の荒れの「空気」が強大になり、教員の抑止力を上回った時には、「空気を読める子」も一緒になった学級崩壊、いじめなどが生じます。

では子どもたちを「いい子」にまとめる「空気」はどのように作ればよいでしょう。「空気」は同調圧力ですから、それを保つためには「みんなが同じ」状態を作らなければいけません。例えば、服装は下着の色まで同じ、髪の毛の色も束ねるゴムの色も同じ・・・。いわゆる「ブラック校則」は「空気」を保つためのゼロトレランスです。「ブラック校則」とまではいかないまでも、日本の教員は「みんな同じ」を求めることが多いです。自分の意思で何か違ったことをしようとすると「それはダメ」「これはダメ」と芽を摘み取ります。日本はこのような「小さなゼロトレランス」を重ねることで、校内暴力、授業妨害などの大きな問題行動の発生を抑制しようとしており、その面ではそれなりの効果があったと私は解釈しています。(もちろん失ったものも多いですが、その話は別のところでします。)

出席停止に踏み切れないわけ

「空気」で教育してきた学校が、ゼロトレランスのような厳罰に切り替われないことが出席停止がなかなか運用されない理由の一つだと思います。しかし、被害者救済のため出席停止を運用した方が効果的と判断した時は躊躇なく運用すればいいと私は思います。ただ、実際に運用するためにはさらにいくつもの壁があるのも事実です。ここでは3つ挙げます。

出席停止の難しさ(1)発達障害

教室の「空気」を打ち破るのは「空気を読めない子」です。例えば授業中に席を立つ、大声を出すような子の中には、ADHDアスペルガー症候群などの発達障害を抱える子が圧倒的です。単なる「お調子者」なら叱る指導も効果がある場合もあるかもしれませんが、発達障害を抱える子に厳しい指導を続けると「よくなりたいけどなれない」「自分はダメな人間だ」と強く認識し、強い反抗、暴力・暴言、対人恐怖、不登校、引きこもりなどの二次障害に至ります。
「いじめーいじめられ」の関係の中に発達障害が関連している可能性を示唆したのが司馬理英子さんの「のび太ジャイアン症候群」(主婦の友社 1997)です。いじめ、不登校、非行の根底に発達障害が潜んでいることが多いことを指摘し、学校教育、家庭教育に大きな提言をしました。

発達障害をもつ子は、友達とうまく合わせることができず、いじめられる側になることが多いですが、いじめる側にも、発達障害が「疑われる」事例も多々あります。「疑われる」と書いたのは、発達障害であるかの見極めは専門の医師の診断が必要だからです。発達障害との診断が出れば、服薬やその子にあった指導ができるのですが、教員から「あなたのお子さんは発達障害が疑われるので病院に行ってきてください」とはなかなか言えません。言ったとしても応じてくれる親は少数です。このように指導の決め手がないまま「被害者が我慢するしかない」状態が続いてしまうことがあります。確かにこれは問題です。

教員からは「特別な支援を必要とする子が増えて、対応が追いつかない」という声が多く聞かれます。たまにそういう子が欠席すると「今日は本当に楽だった」と本音が出ます。本当は授業の邪魔をしたり、いじめをしたりする子は出席停止になればどんなに楽か分かりません。しかし、数日登校を止められたからと言って、加害者がよくなるとは限りません。逆効果になるかもしれないです。いじめ被害者も、加害者が戻ってくる日を戦々恐々と待つことになるかもしれません。

出席停止の難しさ(2)家庭の問題

出席停止が運用しづらい理由の2つ目は家庭の問題です。加害者が、家庭でネグレクトや暴力などの虐待を受けている、経済的な理由から食事などが十分に与えられていない、片親で十分に面倒を見てもらえない・・・などのケースがあります。家に居場所がなく、学校でも重ねて指導を受けるようでは、子どもを追い詰めるだけで、改善は期待できません。出席停止で家に留めおくことは明らかに逆効果で、危険な場合すらあります。

私の聞いた事例では、「出席停止にしたが、親が学校に行かせる」というものもありました。

出席停止の難しさ(3)加害者の限定

いじめの対策として出席停止が運用しづらい3つ目の理由は加害者の限定です。暴力行為や授業妨害は加害者は明確ですが、いじめは隠れて危害を加えるために加害者が特定しづらいです。

例えばAさんが「Bさんにいじめられた」と言って不登校になったとします。しかし、Bさんは「Cさんに命令されてやった」と言い、Cさんは「僕は止めたけど、Bさんが自分でやった」と言えば、目撃者がない場合、加害者をBさんかCさんに限定することはほぼ不可能です。仮に、目撃者がいたとしても、本人が「絶対にしていません」と言えば、その子を加害者と限定することはできません。これは学校教育の限界です。

その他にも加害者が限定できない例として次のようなケースもあります。

【ケース1】クラスの中で一人だけ無視される。その子と接してはいけないという強い「空気」が発生しており、その中心人物が見えない場合です。いわば被害者以外の全員が加害者です。出席停止を当てはめると、被害者以外が出席停止になり、被害者が一人だけ教室で授業を受けるという状態になります。確かに学習権の保証にはなりますが、選択肢としてはありえません。

【ケース2】グループの中で、中心人物AがメンバーB、C、Dを一人ずつ「仲間はずれにするー許す」を繰り返すようなケースがあります。すると、ある段階でAが弾かれることがあります。Aが「いじめられた」と言って不登校になったとして、B、C、Dを出席停止にすると、B、C、Dは「今までAにいじめられていた。悪いのはA」「私だって学校を休みたかったけどがんばって来た。私も休んだらよかったの?」と言うでしょう。親も黙ってはいないでしょう。

その中で、学校は、警察、検察役、裁判官の役割を求められます。最悪のケースが「冤罪」です。犯人扱いをされた子に深い傷を負わせます。本人が「絶対にしていない」と言ったら(たとえ100%やっていても)加害者と限定できないのはそういう怖さがあるからです。本人の納得がない中で罰を加えても逆効果です。

本当の問題は何か?そして解決への道は?

いじめを抑制する方法としての「ゼロトレランス」にも「空気」にも問題点や弱みがあり、現状、学校ではいじめを防ぐことは極めて難しいです。

前述のように、私は被害者救済のために出席停止を運用した方が効果的と判断した時は躊躇なく運用すればいいと思います。もちろん、様々なリスクが発生します。出席停止にされた子が自ら命を落とす可能性もあるのです。それが冤罪だったらどうなるでしょう。そのリスクに耐えうるだけの対策が学校や教育委員会にはできないのが現状だと思います。「したくてもできない」ということは、学校の運営そのものに無理があるということではないでしょうか。

そもそも、教室の環境そのものがいじめの「温室」です。同学年の多数の子どもたちを長時間、狭い空間に閉じ込め、同一の内容を教えこむ環境が子どもに高いストレスを与えています。明治以来の「一斉授業」のシステムが時代に合っていませんし、教える内容がどんどん増えていることも強い逆風です。最大40人という1クラスの児童・生徒数も学習指導要領の大量の指導内容も、「子どもがいい子」で「教室が平和」である前提で定められたものです。トラブルが生じた時の危機管理は一応「チーム対応」が謳われていますが、チームの構成員がすでに超多忙で、そもそもの人員が足りていません

文部科学省のいじめ対策の一つが「道徳の教科化」です。しかし、「考え議論する」授業になり、「所見による評価」が入ったことで、今の状況がよい方向に変わるとは考えにくいです。むしろ教員の自由度を制限し、多忙化をすすめる弊害の方が大きいかもしれません。

また、文部科学省はいじめ対策としてスクールカウンセラーの全校配置」を行いましたが、「週1回4時間」のような掛け持ちです。次々と発生するいじめに対して、相談の順番待ちをしている子どもと教員がたくさんいます。千葉の虐待死の問題を受けて、政府は児童相談所の職員を増やす方針を打ち出しました。同じように、学校にももっと多くのスクールカウンセラーが必要です。しかし、そのための予算はなかなかつきませんし、ついたとしても、条件に合った人の確保は簡単ではないでしょう。教員すら講師不足で必要数に満たないのです。

子どもの問題行動にまったく抵抗力のないこれらの基本構造の改善を議論することがまず必要ですが、その改善を待っている間にも次々といじめは発生していきます。

八方塞がりの中で、もし活路があるとすれば、保護者や地域ボランティアなどの外部の力を借りることです。教員免許やカウンセラーの資格がある人が足りないなら、資格がない人に頼るしかないです。前回のブログでは、「いじめを発生させない」ために、教員以外の多くの大人の目を学校に入れることを提案しました。保護者、地域ボランティア、民生委員、行政職員などが交替で子どもたちの様子を「見守る」のです。決して「見張り」ではなく「見守り」としてです。(これは次回、【具体策】として提案します。)

学校ももっとSOSを出した方がよいです。そして、保護者や地域を「カスタマー(顧客)」から「パートナー」に引き入れることが、改善の第一歩になると思います。言い換えれば、道徳教育、出席停止など「子どもを変える」対策ではなく「大人を変える」、つまり保護者や地域、行政が主体的に動く対策が鍵になると思います。

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【コラム5】いじめ対策の盲点は「防止」ができていないこと

「いじめ防止対策推進法」の中に教員の懲戒処分を含めるかどうかが議論されています。

 

『【#しんどい君へ】揺れる「いじめ防止法」…放置した教職員を懲戒すべきなのか』(読売新聞オンライン)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190820-00010002-yomt-soci
 

私は、一連の議論を目にして、違和感を感じるのは、「いじめを未然に防ぐシステム」ができていない中で、事後対策を強化しても、傷つく子どもが発生することは防げないということです。「いじめ防止」と言いながら、「防止」になっていません


現在、いじめ対策にどのような予算がつけられているかというと、スクールカウンセラー(SC)、スクールソーシャルワーカー(SSW)などの配置です。これらの配置はとてもありがたいのですが、SC、SSWが登場する頃にはいじめは相当深刻化しています。
トラブルは、生じてから対応するとコストが大きくかかります。対応が遅れれば遅れるほど被害が拡大し、子どもは傷つき、解決までの時間は長く、教員も疲弊します。
大切なのは、まず生じないようにすることと、できるだけ小さいうちから対処することです。つまりSC、SSWに使う支出を、「いじめが発生しにくい環境をつくること」「いじめの芽をできるだけ小さいうちに摘み取ること」に回した方が、子どもも傷つかず、教員も疲弊せず、コストも少なくてすむということになります。


まず「いじめが発生しにくい環境をつくること」について説明します。
以前、荻上チキさんの講演を聞いた時に印象に残ったのが、「高校生に『いじめを増やす方法』を考えさせた」というものです。「何でも禁止にする」「宿題を増やす」「先生が怒ってばかりいる」「先生が見て見ぬふりをする」などの意見が出たそうです。一見いじめとはつながりにくくても子どもたちにストレスを与え、間接的にいじめを増やす原因になりかねないことを学校は数多くやっています。
「いじめ」が命にかかわる重大な事項であると本当に認識されているなら、学校環境の改善、とりわけ教員の業務削減と子どもへの指導内容の精選も課題にされるべきでしょう。その部分は手をつけずに事後対策だけを強化するのは「アクセルを目一杯踏みながら、ブレーキをかける」愚策です。道徳の教育の充実、頻繁ないじめ調査なども同様です。
肥大した学習指導要領、40人学級、一斉授業など、一人一人に目を行き届かせることが困難な制度が、いじめの温床となっているとするならば、文部科学省がいじめを増やしている」という自覚のもとで、施策を見直してほしいです。


次に「いじめの芽をできるだけ小さいうちに摘み取ること」について説明します。
現在は、いじめの発見は担任を中心とする教員の役割になっています。「いじめアンケート」をすればいいと考える人もいますが、学級の「空気」の中で正直に書けない子もいます。休み時間に一人で過ごしているのはいじめられている子の発するサインですが、その時には手遅れになっていることもあります。一人でいる姿を気づかれないように行動する子さえいます。隠されたいじめを早期に発見するには教員の「空間認知能力」が必要です。教室に入って、子どもたちの動きを全体的に把握しながら、「クスッと笑う」「ヒソヒソ話す」「目配せをする」などの微妙な動き、「隣の子と机を離す」「すれ違う時避ける」「触れたところを払う」「給食を受け取らない」など明らかな動きまで、いじめのサインを捉えなければいけません。
しかし、教員は常に複数のタスクを抱えています。
『算数の計算方法を教えながら、私語をする子に声がけをし、勉強が苦手な子にヒントを与えながらも、いじめのサインを捉えるアンテナを張り、何か引っかかったら優先順位を入れ替え、授業を中断して指導する。』
教員に求められているのはこういう能力です。私は同時のタスクが重なると視野が狭く=空間認知能力が低下します。それでも、痛い目に何度もあいながら、見逃してはいけないサインが分かるようになってきましたが、いじめをする子どもたちの狡猾さにはなかなか勝てませんでした。
現在、ベテランの大量退職に伴い、若手の教員が増えています。現在の50代の大量のベテランが学校を支えてきたこの20年の間に、教員のタスクは増加し高度化し続けました。次々とふりかかる難課題を、中堅ーベテランが長時間労働によって「やりとげる」ことで、予算も人も着きませんでした。20年前の若手と、今の若手では求められるレベルが違いすぎます。この現状で、いじめ発見を教員の役割にするのはあまりにも酷です。
今の学校には子どもたちを見守る多くの「目」が必要です。いじめ抑制・早期発見の策はこれに尽きます。本来なら、国が大きな予算をつけて教員を増やせばいいのですが、今、教員自身が足りないので、「職員室に席を作っても座る人がいない」状態です。また、教育にお金をかけようとしない国が動き出すのを待っていては、何年後になるか分かりません。
私は、地域の方がボランティアで子どもたちの登下校を見守る「見守り隊」と同じように、学校の中で子どもの様子を見守る「校内見守り隊」を作ることが解決策になると考えています。

これについては次回【具体策12】で詳細を述べますが、ここでは最小限の説明をします。構成員は、地域のボランティア、保護者、民生委員、警察官、消防士、市役所・町村役場の職員などが考えられます。教育の専門家でなくてもよいです。複数タスクで空間認知能力の低下した教員よりもアンテナの感度は期待できます。子どもたちへの指導は基本的にしません。「校内見守り隊」が「いじめは許さない!」というオーラを出して学校の中を回る「監視隊」になると子どもたちのストレスが増加しますので、基本、子どもたちと仲よく過ごす姿勢を想定します。発見したいじめのサインはSCに繋ぐのが妥当と思います。SCは基本的に校内の見回りを行なっていますから、そのサポート役と考えればよいでしょう。教員に繋いでもいいですが、多忙による対応の遅れや隠蔽が心配です。詳細は次回【具体策12】で。


最後に「いじめ防止対策推進法」への懲戒処分の導入についてですが、私はこうやって何でも法律で締めつけることによって、社会全体が息苦しくなっている現状を危惧しています。もしも、懲戒処分が導入されたら、教員は小さなトラブルも全て管理職に報告するようになるでしょう。報告した時点で、責任は管理職に移り、教員本人の懲戒処分はなくなります。後は、教員がいじめの経過を文書で管理職に報告し続けることで「学校は認識していた」という証拠が残ります。教員や学校による放置はなくなるでしょうが、教員が自分を守るための仕事が増えます。それよりも、多くの目で子どもたちを見守り、社会全体で子どもたちを育てる体制を作る方向に世の中が進んでほしいと思います。

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