学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【コラム7】コロナ休校で見えた教育の3つの問題

新型コロナウイルス感染症に伴う公立学校の一斉休校は、社会全体に衝撃を与えました。その衝撃の大部分は「子どもを誰が預かるのか」という問題でした。私は共感できる部分がありながらも、かなり斜めの視点からこの問題を分析していました。そして、現在の学校のあり方に3つの問題を感じました。

 

《問題1 子どもの学習の機会の喪失に無関心な社会》

まず、驚かされたのは、子どもたちの教科学習の機会が失われたという問題が「何の議論にもならない」点です。
私は一斉休校の話が出た時点で「終わっていない勉強どうするんだ?」とまず思いました。結論として文科省は、4月になって教えてもよい、そのために授業時数を増やすことはないという方針を示しました。しかし、この方針はおそらくほとんどの人(教員を含む)が目を通していないでしょう。言ってみれば「勉強なんてどうでもよい」のです。もっと言えば教員に勉強を教える機能はそれほど期待されておらず、教員自身もそこに強い使命を感じていないということになります。
私個人としては、戦後70数年の中で、今ほど勉強することが大切な時はないと思っています。AIやロボットが単純作業を人から取り上げて行く中で、付加価値を生み出せる人に報酬が偏っていくのです。付加価値を生み出せる10%とAIやロボットのおこぼれにあずかる90%。そして上位10%が富の90%以上を得る世の中にすでに移行しつつあります。そして、この格差を是正できるのは教育だけなのです。教育の力を過小評価する国が向かう道は極めて険しいです。

 

《問題2 学校に期待されていたのは保育機能》

同時に驚かされたのは、学校に期待されていたのは「保育機能」だったということです。ある市では早々に小学校1〜3年生を学校で預かることを表明し、預からない市町村は悪者か怠け者かのような見られ方までされました。臨時的な措置とはいえ、休校中に子どもを預かるのは学校の役割ではありません。教員の業務は「児童・生徒の教育」であり「保育」ではないからです。「教育」は、教員免許をもった者が行う計画的なカリキュラムに則った営みです。学校が子どもを一時的に受け入れる場を提供するのは分かりますが、子どもの保育を行うのは市町村から派遣された人員であるべきです。文部科学省は、教員が学童保育を支援することが可能であるとの見解を示しました。可能かもしれないが適切ではありません。学童保育指導員の採用には、教員免許も保育士免許も必要ありません。教員でも可能だというなら、市長でも教育長でも可能です。教員を「何でも屋」にしてきたことで教員人気の低下を招き、子どもたちに充実した教育が困難になっている状況を考えると自殺行為です。

もう一つ言えば、保護者が子どもを見られない背景には非正規雇用の拡大による、収入格差の問題があります。「なぜ昼間に子どもの面倒を見られない親がいるのか」「なぜ子ども食堂が必要なのか」など根本的な問題に目を向けなければいけないのに、目先の問題から発展しなかったのは非常に残念です。

 

《問題3 自主性・自律性が育っていない子どもたち》

有り余る時間が与えられた時に、自分から「あんな遊びがしたい」「あんな勉強がしたい」と思える子を育ててこれなかったことが明らかになりました。さらに残念なのは、そのことがやはり「何の議論にもならない」ことです。

ゲーム、テレビ、YouTube、ゲーム、テレビ、YouTube・・・と時間をつぶす子、休校の意味も分からず繁華街へ繰り出す子と、教育が目指す自主的で自律的な姿からはほど遠いです。そしてその失敗を省みることもなく、学校は、大量のプリントを与え、抜き打ちの家庭訪問で遠隔管理をしようとしました。これではますます、目指す姿から遠のいてしまいます。

子どもが何かに興味を示した時に、それを支援できるのは保護者です。学校は個別の対応ができるほど時間や人員にゆとりはありません。子どもに「生き方」を教えるのも保護者の役割です。学校は、基本、週1時間ずつの道徳と特別活動、休み時間・給食・掃除・部活動等の中で、社会性の基礎の基礎を教える機能しかありません。しかも今の学校は子どもたちを「統制」しないことには運営できない特殊な環境になってしまっています。どうしても自主・自律とは反対の「黙って言うことを聞く」子どもを育てがちです。一方、家庭には、普段から我慢させる習慣がないし、興味あることに向かわせる余裕もないため、子どものコントロールができません。今回の問題をきっかけに、学校や家庭はそれぞれの役割の中で、子どもたちにどんな力をつけたいのかということを議論しなければいけないと思います。

もう一つ言えば、おそらく一部の子どもたちはこのような環境でも自分でやりたいことを見つけ、有り余る時間を有効に使っていたことでしょう。そして、高学歴の保護者ほど子どもたちが学べる環境づくりをしているという調査結果もあります。こうやって格差がまた開いていくと考えると恐ろしいことです。

 

今回の騒動をきっかけに、学校と家庭の役割とか、それを支える社会全体の機能とか、格差是正の必要性とか、子どもたちにどんな力をつけなければいけないのかなどと、本質的な議論に踏み込むよい機会だったのに、議論は行政や学校の「対応の是非」に集中しました。そこにあるのはお金の話(確かにそれは深刻だけど)や「思い出はどうなる」「子どものストレスが限界だ」というような二次的な問題が目立ちました。
教育は国家100年の計と言いながら、そうはなっていない現実から目を背け、うわべばかりを取り繕っているのなら、まさに亡国への道を歩むしかないのではないでしょうか。

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