学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【コラム6】春名風花さん「いじめる側こそ学校に来ないで」から考えるいじめ対策の難しさ

春名風花さんの「いじめる側こそ学校に来ないで」という発言が拡散したのを受け、内田良さんが、「出席停止」制度の問題点を指摘しています。

Yahoo!ニュース『いじめ加害者の出席停止ゼロ件 夏休み明け「学校に行かなくていい」を考え直す』
https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20190831-00140620/

内田良さんは、いじめによる不登校が433.0件あるのに比べて、いじめによる出席停止が1.7件と極端に少ないことから、いじめ被害者の教育を受ける権利が侵害されている点を問題視しておられます。

一方、春名風花さんのツイートに対して「排除するな」「処罰するな」という批判も見られます。

非常に考えされられる内容でした。ちょうど、私の現在の関心が、「子どもたちの問題行動をいかに未然に防ぐか」という点にありますので、第三者的(とはいえ、学校内部の事情もよく知る)立場から、この問題について述べたいと思います。

 

アメリカの「ゼロトレランス
まず、本題からはやや離れますが、参考になる事例としてアメリカの問題行動対応について触れます。
幼少時から日米間を行き来しながら生活しておられる織井弥生さんのコラム「子どもの可能性を引き出す アメリカ最新教育事情」(2009〜2014)が学研のウエブサイトで紹介されています。この中でアメリカの学校における問題行動への対応が紹介されています。


『小学校低学年では、教師の指示に従わなかった子どもは、教室の隅に置かれた「タイムアウトの椅子」に座らされ、教師が再び席に戻ることを許可するまで、授業に参加することはできません。』
キンダーガーテン(日本の幼稚園年長に相当)では、3回注意されるまでは許容範囲ですが、それを越えると保護者に連絡が来るという決まりがあります。小1では、教師から注意をされる許容範囲が1回のみと、俄然厳しくなります。2回目の注意を受けた時点で、保護者に「今日、お子さんは○○の言動により、注意を2回受けたことを報告します。家庭でよくお子さんと話し合ってください」という内容のメモが発行され、保護者はその報告を確かに受けた旨のサインをし、翌日、教師に提出します。小学校中学年以降では、学校に居残りを言い渡され、説教されたり、反省文を書かされたりすることも珍しくありません。同様の問題が何回か続く場合は、保護者と教師との間で話し合いが持たれます。保護者は、問題となる行為について子どもと話し合い、家庭でしっかりと指導することを求められます。それでも解決しない場合は、校長と保護者とが面談をし、最悪の場合は退学を言い渡されます。』


https://hon.gakken.jp/reference/column/amerika/article/100414.html


このような指導を「ゼロトレランス」と言います。文部科学省のHPではゼロトレランス「学校規律の違反行為に対するペナルティーの適用を基準化し、これを厳格に適用することで学校規律の維持を図ろうとする考え方」と説明されています。この措置によって、アメリカは学級崩壊や校内暴力とは無縁のようです。

ただし問題もあります。二宮皓さんは「新版 世界の学校」(学事出版 2014)の中で、このような厳格な指導が「結果的に中退する生徒が増える状況に対する批判もある」としています。本書によれば、アメリカに限らず、様々な国でドロップアウトによる犯罪予備軍やひきこもりの増加が大きな問題になっています。ゼロトレランスは教育によってこそ救わなければいけない人を切り捨ててしまう性格をもちます。また二宮さんは、アメリカでも、いじめは大きな問題となっていると指摘しています。「12歳から18歳までの約28%がいじめを経験している(連邦政府による2009年の調査より)。」「いじめに対する法的措置は学区に委ねられており、他の問題行動と同様の処分(指導、停学、転学措置等)の対象となることが多いようである。」とあります。いじめに対してもゼロトレランスで対応しながらも、発生を抑えられない実態が伺えます。

アメリカで導入されているゼロトレランスは、日本でも一時期、文部科学省によって導入されようとしましたが、一般的にはなりませんでした。まだ未成熟な発達段階にある子どもに厳しい指導を徹底できる土壌がなかったのだと思います。部活動における厳しい指導の末に自殺してしまった高校生の例もあります。福井の中学校で厳しい指導の末に自死に至った「指導死」も記憶に新しいです。「ブラック校則」もゼロトレランスであり、今、強く見直しが求められています。
出席停止はゼロトレランスなのでしょうか。建前は子どもに対するペナルティではなく、「保護者が出席させることを禁じられる」という措置です。懲戒でないとは言え、結果的にペナルティと同様の対応となっており、ゼロトレランスであると私は考えます。

「空気」で指導する日本

アメリカの「ゼロトレランス」に対して、日本はどのように子どもたちを指導しているのでしょう。私たちはあまり意識していませんが、そこには「空気」=同調圧力の存在が色濃いです。「学校には行くものだ」「授業はちゃんと受けるものだ」「給食は残さず食べるものだ」という前提で「みんなやっているから」という同調圧力=「空気」を発生させることで、子どもたちを一定の方向に導きます。「空気」は学校に限らず日本のあらゆる場面で発生する「暗黙の行動規則」です。「空気」と言われると弱々しい印象を受けますが、日本全体を太平洋戦争に巻き込んだのも「空気」だと言われれば、その威力が分かっていただけると思います。

ここで言う「空気」は1977年に山本七平さんが著した「『空気』の研究」で述べられているもので、日本の社会全体の規律を支えていると言えます。日本に犯罪が少ないのも「空気」の力が大きいと解釈できます。

ただし、教員の作る「空気」の圧力には限界があります。いわゆる「空気を読めない子」は同調圧力を容易に突破します。子どもたち同士の荒れの「空気」が強大になり、教員の抑止力を上回った時には、「空気を読める子」も一緒になった学級崩壊、いじめなどが生じます。

では子どもたちを「いい子」にまとめる「空気」はどのように作ればよいでしょう。「空気」は同調圧力ですから、それを保つためには「みんなが同じ」状態を作らなければいけません。例えば、服装は下着の色まで同じ、髪の毛の色も束ねるゴムの色も同じ・・・。いわゆる「ブラック校則」は「空気」を保つためのゼロトレランスです。「ブラック校則」とまではいかないまでも、日本の教員は「みんな同じ」を求めることが多いです。自分の意思で何か違ったことをしようとすると「それはダメ」「これはダメ」と芽を摘み取ります。日本はこのような「小さなゼロトレランス」を重ねることで、校内暴力、授業妨害などの大きな問題行動の発生を抑制しようとしており、その面ではそれなりの効果があったと私は解釈しています。(もちろん失ったものも多いですが、その話は別のところでします。)

出席停止に踏み切れないわけ

「空気」で教育してきた学校が、ゼロトレランスのような厳罰に切り替われないことが出席停止がなかなか運用されない理由の一つだと思います。しかし、被害者救済のため出席停止を運用した方が効果的と判断した時は躊躇なく運用すればいいと私は思います。ただ、実際に運用するためにはさらにいくつもの壁があるのも事実です。ここでは3つ挙げます。

出席停止の難しさ(1)発達障害

教室の「空気」を打ち破るのは「空気を読めない子」です。例えば授業中に席を立つ、大声を出すような子の中には、ADHDアスペルガー症候群などの発達障害を抱える子が圧倒的です。単なる「お調子者」なら叱る指導も効果がある場合もあるかもしれませんが、発達障害を抱える子に厳しい指導を続けると「よくなりたいけどなれない」「自分はダメな人間だ」と強く認識し、強い反抗、暴力・暴言、対人恐怖、不登校、引きこもりなどの二次障害に至ります。
「いじめーいじめられ」の関係の中に発達障害が関連している可能性を示唆したのが司馬理英子さんの「のび太ジャイアン症候群」(主婦の友社 1997)です。いじめ、不登校、非行の根底に発達障害が潜んでいることが多いことを指摘し、学校教育、家庭教育に大きな提言をしました。

発達障害をもつ子は、友達とうまく合わせることができず、いじめられる側になることが多いですが、いじめる側にも、発達障害が「疑われる」事例も多々あります。「疑われる」と書いたのは、発達障害であるかの見極めは専門の医師の診断が必要だからです。発達障害との診断が出れば、服薬やその子にあった指導ができるのですが、教員から「あなたのお子さんは発達障害が疑われるので病院に行ってきてください」とはなかなか言えません。言ったとしても応じてくれる親は少数です。このように指導の決め手がないまま「被害者が我慢するしかない」状態が続いてしまうことがあります。確かにこれは問題です。

教員からは「特別な支援を必要とする子が増えて、対応が追いつかない」という声が多く聞かれます。たまにそういう子が欠席すると「今日は本当に楽だった」と本音が出ます。本当は授業の邪魔をしたり、いじめをしたりする子は出席停止になればどんなに楽か分かりません。しかし、数日登校を止められたからと言って、加害者がよくなるとは限りません。逆効果になるかもしれないです。いじめ被害者も、加害者が戻ってくる日を戦々恐々と待つことになるかもしれません。

出席停止の難しさ(2)家庭の問題

出席停止が運用しづらい理由の2つ目は家庭の問題です。加害者が、家庭でネグレクトや暴力などの虐待を受けている、経済的な理由から食事などが十分に与えられていない、片親で十分に面倒を見てもらえない・・・などのケースがあります。家に居場所がなく、学校でも重ねて指導を受けるようでは、子どもを追い詰めるだけで、改善は期待できません。出席停止で家に留めおくことは明らかに逆効果で、危険な場合すらあります。

私の聞いた事例では、「出席停止にしたが、親が学校に行かせる」というものもありました。

出席停止の難しさ(3)加害者の限定

いじめの対策として出席停止が運用しづらい3つ目の理由は加害者の限定です。暴力行為や授業妨害は加害者は明確ですが、いじめは隠れて危害を加えるために加害者が特定しづらいです。

例えばAさんが「Bさんにいじめられた」と言って不登校になったとします。しかし、Bさんは「Cさんに命令されてやった」と言い、Cさんは「僕は止めたけど、Bさんが自分でやった」と言えば、目撃者がない場合、加害者をBさんかCさんに限定することはほぼ不可能です。仮に、目撃者がいたとしても、本人が「絶対にしていません」と言えば、その子を加害者と限定することはできません。これは学校教育の限界です。

その他にも加害者が限定できない例として次のようなケースもあります。

【ケース1】クラスの中で一人だけ無視される。その子と接してはいけないという強い「空気」が発生しており、その中心人物が見えない場合です。いわば被害者以外の全員が加害者です。出席停止を当てはめると、被害者以外が出席停止になり、被害者が一人だけ教室で授業を受けるという状態になります。確かに学習権の保証にはなりますが、選択肢としてはありえません。

【ケース2】グループの中で、中心人物AがメンバーB、C、Dを一人ずつ「仲間はずれにするー許す」を繰り返すようなケースがあります。すると、ある段階でAが弾かれることがあります。Aが「いじめられた」と言って不登校になったとして、B、C、Dを出席停止にすると、B、C、Dは「今までAにいじめられていた。悪いのはA」「私だって学校を休みたかったけどがんばって来た。私も休んだらよかったの?」と言うでしょう。親も黙ってはいないでしょう。

その中で、学校は、警察、検察役、裁判官の役割を求められます。最悪のケースが「冤罪」です。犯人扱いをされた子に深い傷を負わせます。本人が「絶対にしていない」と言ったら(たとえ100%やっていても)加害者と限定できないのはそういう怖さがあるからです。本人の納得がない中で罰を加えても逆効果です。

本当の問題は何か?そして解決への道は?

いじめを抑制する方法としての「ゼロトレランス」にも「空気」にも問題点や弱みがあり、現状、学校ではいじめを防ぐことは極めて難しいです。

前述のように、私は被害者救済のために出席停止を運用した方が効果的と判断した時は躊躇なく運用すればいいと思います。もちろん、様々なリスクが発生します。出席停止にされた子が自ら命を落とす可能性もあるのです。それが冤罪だったらどうなるでしょう。そのリスクに耐えうるだけの対策が学校や教育委員会にはできないのが現状だと思います。「したくてもできない」ということは、学校の運営そのものに無理があるということではないでしょうか。

そもそも、教室の環境そのものがいじめの「温室」です。同学年の多数の子どもたちを長時間、狭い空間に閉じ込め、同一の内容を教えこむ環境が子どもに高いストレスを与えています。明治以来の「一斉授業」のシステムが時代に合っていませんし、教える内容がどんどん増えていることも強い逆風です。最大40人という1クラスの児童・生徒数も学習指導要領の大量の指導内容も、「子どもがいい子」で「教室が平和」である前提で定められたものです。トラブルが生じた時の危機管理は一応「チーム対応」が謳われていますが、チームの構成員がすでに超多忙で、そもそもの人員が足りていません

文部科学省のいじめ対策の一つが「道徳の教科化」です。しかし、「考え議論する」授業になり、「所見による評価」が入ったことで、今の状況がよい方向に変わるとは考えにくいです。むしろ教員の自由度を制限し、多忙化をすすめる弊害の方が大きいかもしれません。

また、文部科学省はいじめ対策としてスクールカウンセラーの全校配置」を行いましたが、「週1回4時間」のような掛け持ちです。次々と発生するいじめに対して、相談の順番待ちをしている子どもと教員がたくさんいます。千葉の虐待死の問題を受けて、政府は児童相談所の職員を増やす方針を打ち出しました。同じように、学校にももっと多くのスクールカウンセラーが必要です。しかし、そのための予算はなかなかつきませんし、ついたとしても、条件に合った人の確保は簡単ではないでしょう。教員すら講師不足で必要数に満たないのです。

子どもの問題行動にまったく抵抗力のないこれらの基本構造の改善を議論することがまず必要ですが、その改善を待っている間にも次々といじめは発生していきます。

八方塞がりの中で、もし活路があるとすれば、保護者や地域ボランティアなどの外部の力を借りることです。教員免許やカウンセラーの資格がある人が足りないなら、資格がない人に頼るしかないです。前回のブログでは、「いじめを発生させない」ために、教員以外の多くの大人の目を学校に入れることを提案しました。保護者、地域ボランティア、民生委員、行政職員などが交替で子どもたちの様子を「見守る」のです。決して「見張り」ではなく「見守り」としてです。(これは次回、【具体策】として提案します。)

学校ももっとSOSを出した方がよいです。そして、保護者や地域を「カスタマー(顧客)」から「パートナー」に引き入れることが、改善の第一歩になると思います。言い換えれば、道徳教育、出席停止など「子どもを変える」対策ではなく「大人を変える」、つまり保護者や地域、行政が主体的に動く対策が鍵になると思います。

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