学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【ポストコロナの学校改革15】多様性と向き合う③問題行動や不適応と多様性の境界

平成元年の学習指導要領では「個性を生かす教育の充実」が強く打ち出されました。子ども中心・個性重視の考え方が求められる中で、当時「どんな個性も認めるのか」ということが度々議論になりました。「理科が得意」「走るのが得意」「人に優しい」というポジティブな個性を積極的に認めるのであれば、「乱暴」「自己主張が強い」「ルールに従わない」などの個性も認めなければいけないことになるのかという当然の疑問が生まれます。
1980年代に発生した校内暴力時代から10年以上が経過していましたが、学校は子どもたちの問題行動に常に頭を悩ませていました。問題をもつ子に寄り添う「カウンセリングマインド」という言葉も浸透してきた頃でしたが、望ましくない行動までが「個性」なのかという疑問に多くの教員が迷いました。
「茶髪も個性なのか。」
「勉強しないのも個性なのか。」
「人に迷惑をかけるのは少なくとも個性と認めてはいけないだろう。」
「勉強が苦手なことも個性にしてしまっては教員の責任放棄につながるのではないか。」

堂々巡りの議論の中でも、子どもたちの問題行動は容赦なく発生し、いつしか誰も「個性」ということは問題にしなくなり、学校では画一性を基盤とした指導が継続され時には強化されていきました。
「多様性」はまさにこの「個性」論争の再来です。この間、いじめ、暴力、不登校などの認知件数は年々上がり続けています。
 
では、多様性と問題行動・不適応との境界はどこにあるのでしょう。
まず、多様性を認めるということは、基本的人権を尊重するということに他なりません。

不登校をはじめとする不適応については、そもそもが問題行動ではありません。本人の多様性を認めるところからスタートし、その上で自己実現を図れるように十分な支援が必要です。学校という枠に、本人を当てはめていくことは絶対に避けなければいけません。
一方で、いじめや暴力など、他人に危害を加える問題行動は多様性として許されるものではありません。基本的人権は「公共の福祉に反しない限り」認められるからです。
逆に、髪の毛の色や服装などは、よほどのことがない限り「問題行動」に入れることはできません。「地毛証明書」や生来の髪の毛の色が薄いからと言って黒く染めるような指導は人権侵害です。校則が憲法を上回るということは、そもそもあってはならないことで、訴訟になればブラック校則と呼ばれるルールは全滅でしょう。

多様性がどこまで許されるかを定義するならば、
「人に迷惑をかけない範囲での言動は認められる」「自身の安全が守れる範囲で認められる」
となるでしょう。

 
しかし「白」「黒」で判断できるものばかりではないのが現実の悩ましいところです。
例えば、
・ある髪型が流行した時に、少しでも他人と差をつけようと勉強そっちのけでアレンジ合戦が始まり、勉強への意識が薄れてしまったらどうするか
・「先生の授業、面白くないから廊下で自習します!」と言った子に連なって、ほとんどの子が廊下で自習し始めたらどうするか。
・高級腕時計をしてきた子がいて、学校内で紛失したらどうするか。
・1週間に1回しかお風呂に入らない子がみんなから避けられたらどうするか。
このように、個人の自由裁量の範囲であっても、その言動が他者へ影響を及ぼすことがあります。
 
ブラック校則にかかわる論争の中で、「校則をもっと緩めるべきだ」という主張はもっともなのですが、このような問題が発生した時に誰がその後処理をするのかというと、結局は学校です。
 これまでは、そのような場合に、すべて学校が制限をかけていました。
「このような髪型は禁止します」
「授業中は教室を出てはいけません」
「学校に時計を持ってきてはいけません」
「体を清潔に保つために、毎日お風呂に入りましょう」
しかし、多様性を認めるというのであれば恣意的な規制はこれまでのようにはできません。 
ではどうするかというと、「対話を通して当事者らが考えて決める」ということになります。多様性を担保しながら問題の着地点を見つけるには対話しかないというのが私の結論です
しかし、カリキュラムで飽和している学校には、すでに対話をする余裕がありません。

いくつかの学校で子どもたちの求めに応じて対話の中で校則を見直す動きもありますが、1年間の議論の末に変わったのは、「髪の毛を束ねるゴムの色が黒だけではなく、紺や茶などの地味な色でもよくなった」などという事例もあるようで、ゴールまで何十年かかるかわかりません。
前回のブログでも述べたように、あと何とかできそうなのは大量の学習指導要領の精選しかありません。これは「教育を受ける権利」と多様性の根本である「自由権」の対立であり極めて難しいです。
 
私はまず必要なのが、保護者への「権限委譲」だと思います。
「髪型は保護者とお子さんで話し合って決めてください」
どうやって勉強するか、持ち物をどうするか、お風呂は週何回にするかなど、すべて学校で決めてしまうのではなく、親子の話し合いで決められる範囲は任せるのです。
 
コロナ休校の期間に子どもにスマホを与えた家庭が増えました。案の定、学校再開後にラインいじめ、友達の嫌がる姿の撮影などのトラブルが多発しています。保護者から「スマホでいじめに遭っているようだ」という相談で発覚しますが、学校が「高価なスマホを与えられたのはご家庭ですよね」と対応を拒否しても、強くお願いされて結局学校が調査・指導をしなければいけないという事例を聞きます。捜査権のある警察でも困難なスマホの中の事実確認を丸腰の教員がやるのですから、対応する多くの教員が疲弊しています。

私は、スマホのトラブルは保護者の責任で解決するのが筋だと思います(これについては、PTAの役員の方にアンケートを取ると9割近くの方にご賛同いただけました)。学校は協力することはあっても、最終的な問題解決は保護者同士でやるという事前の取り決めが必要です。スクールカウンセラー(SC)、スクールソーシャルワーカー(SSW)、スクールロイヤー(SL)を積極的に活用するのも有効です。保護者への「権限委譲=責任委譲」は多様性の推進と子どもの自立を同時にすすめる好手になると考えます。もちろん保護者の教育力が低下しているのは承知していますが、教育力を保っている家庭では移譲を推進し、そうでない家庭を行政やSC、SSW、SLなどが支援することも必要です。
 
また、このように保護者に権限と責任を委譲したからと言って、学校でのトラブルは尽きることはないでしょう。むしろ多様性を認める中で新たな問題がもちあがることの方が多いでしょう。その度に対応を職員会議で決めるのではなく、子どもたちに委ねることも必要です。例えば「先生の授業が自分に合わない場合は廊下で学習してもよいことにするか」などを子どもたちが学級会、生徒会などの中で決めていくということです。教員が子どもを廊下で学習させると体罰となりますが、子どもが自ら出て行った場合はどうなるのか、SLに解説してもらえばよいです。その場合に起こりうる問題も子どもたちが予想し「廊下に出る時に友達を誘わない」「廊下では静かに学習し校内を勝手に移動しない」などの付帯決議も加えます。前回のブログでも書きましたが、年間1000余時間の教科等の1割を割けば、100時間の対話の時間を生み出せます。教科の課題解決に比べて、生活にかかわる課題解決はそれ自体がこれからの時代に必要なパワフルな学びになります。以前にこのブログでも話題にした「プロジェクト型学習」と考えればよいです。「教育を受ける権利」と「自由権」の両立が可能になります。

 
もっとも避けなければいけないのは、平成の「個性」論争のように、何もせずに従来路線を踏襲することです。そして、もし改革を決断するのであれば、コロナ禍の今がもっともやりやすいのです。

 

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