学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【コラム9】コロナ×学校の働き方改革②

前回は家庭教育力の低下について書きましたが、今回は地域や行政の教育力についてです。


学校に子どもへの教育機能を一極集中させた日本型学校教育は、今回のようなトラブルがあった時に一気に子どもたちの学びを停止させてしまう可能性があります。
文部科学省が推進しているこの日本型学校教育は教育基本法とも相容れません。


第13条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。


このように教育基本法は社会全体で子どもたち(を含めた国民全体)の教育をすすめていこうという方針なのです。


しかし、地域の教育力は明らかに低下しています。例えばどこかの団体が子ども対象のドッジボール大会を行う時に、自分たちで子どもたちを集めて練習をしたり、チームを作ったりということが難しいために学校単位で募集をかけます。学校は子どもたちの活躍の機会を消滅させることができず、希望者を集め、チームを作り(人間関係もありこれすら簡単なことではない)、休み時間や放課後に練習を見ることになります。大会当日は教員が休日返上でボランティアで引率と指導もしなければいけません。ラグビーやホッケー、野球、バレーボールなどを子ども向けに簡易にしたニュースポーツの大会が一斉に学校にもち込まれた時期があり、十数年、「惰性」とも思える状態で毎年開催されます。最初は各団体から指導者が来て、子どもたちの練習を見ていましたが、軌道に乗ると募集要項だけで指導者は来なくなりました。地域のスポーツ振興を学校が請け負う形になっています。

学校再開後、学校は失われた授業の取り返しに全力を上げなければいけません。社会教育を支援する余裕はありません。学校を頼っていた団体は学校の手を借りずにそのイベントの運営をしなければいけません。自力では成立させられずにイベントが消滅すれば社会の中で子どもたちが学ぶ場が減るということになります。

学校の支援がなければ危機となる社会教育の場は様々です。

【具体策11】でも書きましたが、絵画、感想文等の作品募集も学校経由でなければ成立しません。学校に出せば自動的に作品が集まり、出品の用件にすれば名簿も学校が作ってくれるため、企画も工夫する必要がないし、賞品にお金をかける必要もありませんでした。今年は、夏休みの期間が短くなり、おそらく宿題も相当減るため、多くの作品募集は危機となるでしょう。
20年前に学校が週5日になった時に、公民館が土曜日に子どもたちを対象としたイベントを立ち上げる動きがありました。最初は公民館が独自で行っていましたが、子どもたちが言うことを聞かなくなると学校にSOSを出し、学校もそこに教員を向かわせました。教員がそこで指導することで、公民館は子どもたちを教育する力を失っていきました。私はそこでSOSを出すのはPTAであってほしかったと思います。そうすれば地域と親で子どもたちを教育する力が保てたのではないかと思います。
地域の祭り、フェスティバルなどのイベントにも、子どもたちの歌や踊りの参加要請が学校にあります。今年はお断りするという学校は多いでしょう。言葉は悪いですが「客寄せパンダ」的な意味でも、イベントを支えています。私はPTA経由で子どもたちを集めて、子どもたちが自己紹介をするだけでも十分だと思います。「ああ、あの子が〇〇さん家の孫ね」というように子どもたちと地域の顔がつながれば大規模災害の時に避難所に集まった時にも安心です。
地域の伝統的な踊りをいつしか学校が指導することになった地域では、学校統合で地域から学校がなくなると指導する者がいなくなり、踊りそのものが受け継がれなくなりました。
それとは逆に指導力を保っている社会教育もあります。地域差もあるかもしれませんが、私の住む地域ではスポーツ少年団は地域の指導者が連綿と子どもたちの指導に当たっています。少子化で数は減りましたが、指導体制はしっかりとできています。親も(個人差はかなりあるようですが)休日返上で活動を支援しています。「その気」があれば教育力は保てると思います。


本来、社会教育の役割でありながら、学校が請け負っている顕著な例が部活動です。現在の部活動は学校教育の範囲を超えて、スポーツ・文化振興や競技力強化の役割を担っています。(「部活動は学校の役割だろう」とお考えの方も多いと思われるので多少詳しく説明します。)

学校教育における部活動の位置づけは学習指導要領に示されています。


「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際、地域や学校の実態に応じ、地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。」


「学校教育の一環として」と示されているものの、教育課程外の活動であり、学校には「しない」という選択もあります(現実的にはしない選択はかなり困難ですが)。そもそも学校施設は部活動をするように設計されていません。グラウンドでは野球部とサッカー部と陸上部がひしめき合い、体育館は曜日で割り振りが定められたり、地域の体育館が練習場所になったりします。学校のグラウンドも体育館も体育や行事を行うための設計でしかないからです。雨の日は廊下を走ることもあります。ガラスにぶつかって大怪我をした事例もあると聞きます。
この「学校教育の一環として」という文言は平成24年から学習指導要領に記されました。しかし、施設が拡大されるわけでもなく、用具に予算がつくわけでも、人員が配置されることもなく(近年わずかに部活動指導員が入りましたが)、学校に「丸投げ」というのが現状です。丸投げされた学校は部活動を運営するのに、教員の長時間労働に頼るしかありませんでした。
また先の学習指導要領には「地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行う」と示されていますが、なかなか進まない理由の一つに大会参加の問題があります。中学校の部活動の大会を取りまとめる中学校体育連盟は学校教育外の任意団体ですが、大会引率者の条件を顧問の教員に限定しているからです。そして、大会が行われる土日には教員がわずかな手当で長時間の拘束を受けることになります(教員は法律で時間外勤務手当を支払われない制度になっています)。また大会運営も教員に割り当てられており、担当になった教員には相当な業務量があります。審判の資格を自費で取らなくてはいけなかったり、数万円のユニフォームを購入しなければいけなかったりと、かなりの無理を押し通しています。仮に教員以外が引率できたとしても、わずかな手当でやってくれる人材はどれだけいることでしょう。
本来は「野球やりたいやつ集まれー!」と放課後に同好会的に行うのが部活動の制度でしたが、全国大会を頂点とする大会参加を行った時点で、勝利を目指す色合いが強くなってしまっています。一時期、総合型地域スポーツクラブにその役割を移そうという動きもあったのですが、事故があった際の責任の所在や、教育的な効果を守ろうとする教員の意図があったため、なかなかうまくいきませんでした。
近年、文部科学省は「将来的には,部活動を学校単位から地域単位の取組にし,学校以外が担うことも積極的に進める」と示していますが、その受け皿がない地域も少なくありません。もしスポーツ少年団のように、最初から地域が受け皿になっていたら、地域のスポーツ・文化の教育力はまだまだ健在だったかもしれません。
今回のコロナ問題では、スポーツ活動も文化活動もすべて停止したため、部活動の一局集中は問題にはなりませんでしたが、もしも学校ではない組織が部活動を運営していたら、子どもたちによりよい情報(家庭でできる運動指導や演奏・絵画等のオンライン指導)が提供できたかもしれません。


次に、行政の教育力について考えます。行政の教育力という言葉に違和感をもたれる方もおられると思いますが、例えば、「三密」という言葉も行政が国民を教育するために使ったと言えます。よりよい社会を作るためには行政の国民教育力は欠かせません。そして、その教育が学校を経由して行われることが非常に多いです。環境教育、人権教育、消費者教育、防災教育、政治教育・・・などの「◯◯教育」です。環境問題を何とかしなければいけないというのであれば、政府がCMを作ってゴールデンタイムに放送するとか、エコ企業と協力してイベントを開催するとか、学校で行うとするなら専門の指導員を養成して派遣するなど様々な方法が考えられますが、十分な予算も人員もつけずに「◯◯教育」という形で学校に求めてきました。
再開後の学校は学習指導要領で定められた内容をこなすのに精一杯でとても「◯◯教育」に手を回せる状態ではありません。行政は失われた「◯◯教育」の対策をどうするのでしょう。何もしないとすれば、そもそも「する必要はなかった」ということになります。
富山県では県教委主催の「科学オリンピック」という県下の小・中・高校生を対象とした難問の大会(自主参加)がありますが、この問題作成や採点は委嘱を受けた教員が行います。このように、行政の企画でありながら、学校現場の手を借りなければ実施できないものも多々あります。多くの自治体で「子ども県議会」「子ども市議会」が行われていますが、これも代表児童を教員が指導してから引率する形が多く、教員抜きでは成立しません。
コロナ問題を機に、行政も学校教育に頼らずに国民教育やイベントを行う力をつけてもらいたいです。


いったん失われた教育力を再び戻すことは簡単ではありません。時間もかかるでしょう。しかし、教育基本法に示されてる「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」という条文の目指す姿を改めて考え、「教育に関することは何でも学校に」という日本型学校教育を見直すきっかけになればいいと思います。みんなで子どもを育てる意識がある方が間違いなく「子どもたちのため」になるからです。

まず、学校が「断る」「切り離す」「任せる」ことが大切です。これが最も難しいことで、「授業」の優先順位が高まった今しかできません。

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