【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜
私と同じ「ポストコロナの学校」の姿を考えている組織があります。「中央教育審議会初等中等教育分科会」いわゆる「中教審」です。(私と一緒のレベルで紹介してはいけませんね。失礼しました。)
10月7日に「中間まとめ」が発出されています。
「令和の日本型学校教育」の構築を目指して 〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現〜(中間まとめ)
題名にある「令和の日本型学校教育」という言葉に嫌な予感がしながらも若干の期待をもって読み始めました。全72ページ。「まとめ」というより論文です。
そこには「学力格差」「自ら課題を見つけ、それを解決する力」が育てられていないこと、「同調圧力」、「生徒指導上の課題」の増加など、私がここまで主張してきたことと重なる部分も多いのですが、やはり、核心部分では相入れませんでした。
特に、「令和の日本型学校教育」の定義(P5、P18)に驚かされました。
①学習機会と学力の保障
②社会の形成者としての全人的な発達・成長の保障
③安心・安全な居場所・セーフティネットとしての身体的、精神的な健康の保障
従来型の「日本型学校教育」の定義は、①と②だけであったのに、③が付加されています。表記上は「再認識された」、つまり元々あったという口ぶりですが、明らかに付加されています。
この記述のすぐ下(同じP18)には、「学校現場に対して新しい業務を次から次へと付加するという姿勢であってはならない」と書いてあり、これほど見事な「二枚舌」を行政文書で見ることはそうないでしょう。
この③が付加されたのは、コロナを通して「保護者が仕事に行く間、子どもたちを預かる機能」「すべての子どもに昼食を与える機能」「虐待する親から一定時間引き離す機能」などが学校にあったことが明らかになったからです。
ここで示された「日本型学校教育」の強化は非常に危険です。
なぜなら機能を一極集中させることは、センターがダウンした時に、すべての機能が停止するからです。私たちはコロナでその危うさを学んだはずではないでしょうか。
まず、学校に教育機能を集中させていたために、コロナで子どもの学習が停止してしまいました。
もしも、普段から保護者に一定程度の家庭学習の責任と役割が与えられていたら、コロナ下でも子どもの学習がすすんだかもしれません。
また長期休業の間、虐待を受けている子の安否が危惧されました。これも学校の力ではどうにもできませんでした。電話で声を聞くのが精一杯です。
政府は子どもの貧困対策として学校を「プラットフォーム」とする大綱を2014年に掲げていますが、コロナ下では当然これも機能しませんでした。
つまり、コロナを契機に私たちが考えなければいけないのは、学校の機能が停止しても子どもたちを守り育てることのできるリスク分散をした環境です。
そもそも、これからの時代、学校への一極集中自体が不可能になっていきます。
理由は、「一人一台端末」が今年の冬にも全国の小中学校で実現するからです。
まず今年度内に、不登校の子どもたちや入院中の子どもたちへの授業配信が始まります。これは、授業をする教員の前にコンピュータやタブレットを置き、テレビ電話でつなぐだけで瞬時に成立します。すでに出席の要件として認められていますし、逆に、これが始まらなかったら学校が学びの保障を怠っているという大問題です。
次に起こるのが、「我慢して学校に行っていた」子らが、家庭での学習を希望するという事態です。特に、勉強はしたいけれど、同調圧力が苦手な子どもたちなどが学校を離れる可能性があります。
荒れが激しい教室では、落ち着いて勉強したい子が、家庭での学習を希望するかもしれません。教室で勉強するのは、アンチリーダーのグループだけといった様相になることも想像されます。
また、友達に暴力をふるったり、施設を壊したりするような子どもに対して、これまで「出席停止」という方法はなかなか取れませんでしたが、保護者との相談の上で家庭で授業を受けるという選択も考えられます。
次に起こりうるのが、友達の家や公共施設で数人が一緒にリモート授業を受けるというスタイルです。教室の荒れや同調圧力の息苦しさから逃れてきた子は、友達と一緒に過ごす権利までは奪われたくないため、このようなスタイルを望むと思われます。
専業主婦や高齢者が、これらの子どもを見守るような新たな職が生まれる可能性もあります。学習塾がサービスを付加しながらその場を提供する可能性もあります。
また、いくつもの民間の学習ソフトが、基礎的な内容であれば一人でも学べるコンテンツを開発しています。自分に合ったペースで学べるため、短い時間で習熟できることがすでに証明されています。
これからは「学校でみんなと」「友達と数人で」「一人で」という学習スタイルを子どもが選べる時代になります。
果たしてこれがどのようなスピードで進行するかは分かりません。しかし、自然災害や感染症の流行などに伴って全員が家庭で授業を受けるという事態も発生するでしょう。これが一定程度続くと「勉強は学校でする」という概念は崩壊し「家でも勉強できる」意識が定着します。
意識改革の「飽和点」はそれほど遠くないように思います。
子どもたちがバラバラになった時点で、「令和の日本型学校教育」の②全人的な発達・成長の保障は、学校から切り離されていきます。例えば、学習は一人で家でするけど、その後、地域スポーツクラブでいろいろな人と交流する中で社会性を身につけるという子も想定されます。このような分散型の教育機会こそが、本来、教育基本法が目指す教育のあり方です。
“第三条 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。“
当然、さまざまな問題が発生します。家でやると言って勉強をしない子も出てくるでしょう。それを支えるのは保護者の役割にしていかなければいけません。教員は授業中は一人一人の子どもを見て回る机間指導をしますが「家間指導」は不可能です。
余裕がなく支えきれない保護者や力で押さえつけようとする保護者もいるでしょう。
そこで学校が今までのようにおせっかいになりすぎると、教員が保護者の教育までしなければいけなくなります。ここまでのブログでも述べてきたように、そこで手を出すことによって、家庭の教育力、地域の教育力、行政の支援制度を弱めてきたという反省を忘れてはいけません。
今、早急に整備・強化すべきは、保護者を支える行政の機能だと思います。これは、学校がプラットフォームになっている現在でも追いついていないくらいです。(ただ、こちらも人員不足に苦しんでいるということは承知しながらあえて無茶振りをしています。)
「中間まとめ」で示された「令和の日本型学校教育」の③安心・安全な居場所・セーフティネットとしての身体的、精神的な健康の保障はそもそも学校以外の行政の役割です。
今まで子どもたちを一か所に集めることで、子どもたちが起こす事件は学校の中だけで処理されてきましたが、これからは、子どもたちが世に放たれるわけですから、警察も忙しくなるでしょう。
当然、学校には関係各所から強力な協力要請があるでしょう。しかし、ここで一定程度の線引きができないと子どもたちが豊かに学び育つ社会にはなりません。今必要なのは、家庭、地域、行政が「当事者意識」をもつことであり、コロナがその大いなる契機となります。
②、③を切り離しながら、教員は①学習機会と学力の保障に特化できる環境をつくっていかなければいけません。それは②全人的な発達・成長の保障を否定するものではなく、①を行う中でできる範囲での役割になります。
①学習機会と学力の保障について「中間まとめ」が示す姿は、対面とオンラインのハイブリッド、「個別最適な学び」と「協働的な学び」です。これは明治に始まった近代教育の中で最大の転換となるでしょう。
「中間まとめ」は、これらの転換がICTの発達によってたやすく成立するような口調ですが、具体的な部分は何ら示されていません。もしかしたら、文部科学省お得意の「学校丸投げ」バックドロップがまた炸裂するかもしれません。
ただ、新しい学びのスタイルを構築していく作業は私には「ワクワク」する類のものです。対面とオンラインのハイブリッドに耐えうる教材の開発。しかも、「与える」から「自ら学ぶ」への転換、活用力の育成という大命題があります。このような教員本来のクリエイティブな仕事に戻るためにも、学校の働き方改革の推進と本来業務に集中できる環境の構築が望まれます。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を
【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか
【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜
【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか
子どもたちに「自ら学ぶ力」がついていないことを突きつけたのは、コロナの長期休業でした。休校の間、自分の興味や関心のあることについて勉強をすすめることができたのはごく一部の子どもたちだけでした。平成の教育が目指してきたのは、自ら学び、自ら考える子であったはずなのに、結果は「惨敗」と言ってもよいでしょう。
これについては「総合的な学習の時間」(以下「総合」)の中で、探求する力を育ててこれなかった学校教育に責任を求める声もありました。
しかし、学校で探求力をつけることは容易なことではありません。
例えば、5年生を対象に「米」というテーマで探求型の学習をしたとします。
「世界にはどんな米があるか調べたい」
「お米のおいしい炊き方を調べたい」
「稲の生長について調べたい」
「稲作農家の仕事について調べたい」
などのテーマが生まれ、一人一人が自分の課題を決めたとします。(実はそこまでいくのも簡単ではないのですが行けたとします)
まず図書室に行って、本を探してみるもののそれに合致する本にたどり着けることは稀です。
次に図書館に行ったとして、司書の方にお願いすれば、かなりの確率で本を手にすることができます。しかし多くの場合、子どもには理解できない高度な内容の本が届くことになります。
コンピュータ室でインターネットから情報を得ようとしても、検索ワードで絞り込む経験のない子どもたちはなかなか目的の情報にたどり着けませんし、ようやくたどり着いたとしても子どもの読解力に合わない情報が圧倒的です。
そこで発生するのが「1時間、何も成果がなく終わった」という厳しい現実です。そうならないためには教員の相当な下準備が必要になります。事前に図書館から関連した本を取り寄せておいたり、コンピュータに適当なサイトのリンクを貼っておいたりします。これを何十人の子どもたちに対応してやらなければいけません。一方でそれをがんばればがんばるほど、問題解決で育てたい大事な部分を子どもたちから奪ってしまうというパラドックスです。
例えば、子どもが親に「〇〇について研究したい」と言った時に、親が子どもの探究力を育てるためにどれだけの時間をかけて寄り添わなければいけないかと想像すれば、それを同時に何十人に対応することが極めて困難なことはご理解いただけると思います。
「自ら学ぶ力」を高めるためは、まず子どもの興味・関心に寄り添うところからスタートしなければいけません。多人数への一斉指導を基本とする日本の学校教育とはそもそも相入れません。結果として、教員の敷いたレールの上で探究をすすめるような設定にせざるを得ないのです。
さて、そのような中、今こそ注目してほしいと思うのがプロジェクト型学習です。
プロジェクト型学習とは、最終ゴールを設定し、その実現に向けて発生した課題を解決する学習方法で、平成12年に「総合」が始まった時から、一つの方法として確立されています。最近はPBL(project based learning)という呼び方でも注目されています。
私が実際にやってみたプロジェクト型学習に「縄文キャンプをしよう」(小学校6年生)というものがあります。子どもたちは「家づくり」「火起こし」「料理」「土器づくり」のグループに分かれ、一泊のキャンプに向けて準備をしました。3か月ほどの準備期間を経て、自分たちで作ったわらぶきの家に一泊するという経験をしました。自作の手回し火起こし器による着火は残念ながらできませんでしたが、自分たちで川で手づかみした魚を民族資料館でもらった黒曜石でさばいて焼いて食べ、校庭から掘り出した粘土で実際に焼いた土器で水を飲みました。もちろんここまで行くには、担任のかなりのサポートが必要でした。授業を行うために4グループ分の準備が必要でしたし、自分自身が勉強する必要もありました。2時間続きの総合の時間の間、子どもたちがグループで分かれている教室、図工室、理科室、図書室などを行ったり来たりしました。学習に空白が生じてしまうこともありましたし、グループで意見が合わず険悪な雰囲気になっていることもありました。しかし、子どもたちの学びの手応えは確実にありましたし、最後に一泊できたという達成感は何にもかえがたかったです。
実はこのプロジェクト型学習は低学年でも可能です。生活科で「お祭りをしよう」という学習があります。魚釣り、迷路、色ぬり、ボーリングなどのいろいろなお店を作って、2年生が1年生を招待するのです。これも子どもたちが主体となった学びが展開されます。
最近、ニュースで見たのは、福井の中学校3年生が例年通りの県外の修学旅行に行けなくなったために、自分たちで一から計画して、県内の修学旅行を行ったという実践でした。そこには、コロナ感染を防ぐために専門家から意見を聞き、バーベキューを断念する姿がありました。子どもたちが作り上げたコースは、100m走で桐生選手が9.98秒を叩き出した「9.98スタジアム」でのリレーから始まり、福井県内の観光スポットをグループに分かれて巡り、県内の温泉旅館で1泊するというものでした。画面に映し出された子どもたちの笑顔は、従来型の修学旅行では見られない輝きをまとっていました。
このようなプロジェクト型の学習がなかなか行われない背景には、学習指導要領で教える内容の増加があることは否定できないと思います。
一時期、強い批判を受けた「ゆとり教育」ですが、実はPISAの学力調査の結果をよく分析すると「ゆとり教育」を長く受けていた年代の方が、活用力の指標である「読解力」において優秀である傾向が明らかです。
この読解力は直近のPISA2018で15位(前回8位)と大きく後退しました。このPISA2018の対象となった昨年の高校1年生は義務教育の9年間のうち7年間を「脱ゆとり」の平成20年学習指導要領で学んでいます。移行期間も合わせると9年間丸々「脱ゆとり」教育を受けてきた子らです。
この間、教壇に立ってきた身とすれば、教えることが多すぎて、「いかにこなすか」に腐心させられた厄介な指導要領です。
令和2年度から小学校で運用されている平成30年度学習指導要領はさらに教える内容を増やしました。このままでいけば「生きる力」を伸ばすことはさらに難しくなるでしょう。文部科学省は「主体的、対話的で深い学び」を推進すれば、内容が増えても活用力は育つという論をゴリ押ししています。前回の平成20年学習指導要領では「言語活動の充実」がスローガンでした。これが失敗したことはPISA2018の結果からも明らかです。
プロジェクト型学習のよさは、ゴールに向けて何をしなければいけないかを考えた瞬間から、子どもが学びの主体者になることです。またそこには他者との協力や対話、折り合いをつける体験などが自然に発生します。これは今後社会で求められる「付加価値を生み出す力」に直結するものだと思います。
しかし、前述の「縄文キャンプをしよう」で紹介したように、教員の負担は小さくありません。
学習指導要領で定められた教える内容が多すぎることも、教員が授業準備の時間がないくらい多忙なことも、導入の足を引っ張る大きな要因です。
つまり、プロジェクト型学習が効果的だとしても、それは、学校の働き方改革やカリキュラムの見直しと同時にすすめていかなければ実現は難しいということになります。
また、仮に導入の条件が整ったとしても、これらの学習が「学びの格差を生まないか」「誰一人取り残すことなく学べるか」「自己責任論を強化しないか」「同調圧力が学びを阻害していないか」などの点検は必要です。
ちなみに、このプロジェクト型学習は「総合」に限らず、様々な教科で実践が可能です。私がこれまでに実践した例を紹介します。
国語「スーホの白い馬」(小2)
「病院のおじいちゃんおばあちゃんに朗読を聞かせよう」という課題で、心をこめた音読練習を重ね、病院の待合スペースで入院中のお年寄りに音読発表をしました。涙を見せるお年寄りの姿に子どもたちは強い手応えを感じていました。この実践をして驚いたのは、市販のテストで、一人が95点だった以外は100点だったことです。音読以外何も勉強していなかったのですが、実生活と結びつくことで、力強い学びが発生していることを実感しました。
社会科「スーパーマーケット」(小3)
大阪屋という学校の隣のスーパーマーケットに見学に行った際に、店長さんに「大阪屋がもっとお客さんに喜ばれるようなアイデアを私にください」と言ってもらいました(もちろん事前の仕込みです)。子どもたちは他店との値段の比較や品質のチェックなどをして、アイデアをまとめていきました。保護者の話では、家に帰ってからも大阪屋のチラシを眺めながら「もっといいスーパーになるにはどうしたらいいかなあ」と考えていた子もいたそうです。
このように、学びを子どもたちにシフトすることで、パワフルな推進力が生まれることを実感できます。ウェブで調べればもっと素晴らしいいくつもの実践があると思います。
さて、このような学習を繰り返したとしても、長期の休校の中で、自ら学べる子どもに育てられるという保証はありません。しかし、子どもたちに「与えて」「与えて」「与えて」「与えて」「与えて」の学習では、未来を生きる子どもたちが必要とする力はつけられないこともまた自明です。
保護者にも意識改革が必要です。本来、家庭学習は学校ではなく保護者の守備範囲です。保護者も学校から与えられることに慣れ過ぎて、「自ら考え」子育てをすることから逃げていないでしょうか。
全体が「主体者」となるような改革の中で、自ら学ぶ子どもたちが育つことを期待します。
ポストコロナの学校改革は「部分」を変えるマイナーチェンジではく、大きな目標に向けて全体を変えていくフルモデルチェンジになります。今回は極めて部分的な「プロジェクト型学習」について述べましたが、私はこれが学校の心臓部分にかなり近いのではないかと思っています。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を
【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか
【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜
【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる
今回は視点を変えて教科指導について話をすすめます。
「詰め込み教育」という言葉を聞いたことがあると思います。それに対する「思考力の育成」「自ら学び自ら考える力」「生きる力」は、知識偏重のアンチテーゼとして、昭和の終わりから事あるごとに叫ばれ続けてきました。
しかし平成の30年間、学校教育はこれに対する具体的な手立てをほとんど何も確立できないままここまで来てしまいました。
学校は何を研究してきたのか
日本の教員は「研究授業」と言って、お互いの授業を参観することによる研修をすすめており、これは世界的に見ても評価が高いと言われています。教員はこの研究授業に大変な労力を注ぎ込みます。
多くの教員は、子どもたちが元気よく手を挙げたり、積極的に発言したり、意見を交わし合ったり、深く思考したりする授業を「いい授業」として思い描きます。しかし、何度も言ってきたように学校は子どもに対する強制力がありませんから、席に着かないような子さえいます。まず、席に着かせる。教科書とノートを机上に出させる。教科書とノートを開かせるというところから始まります。ようやく学習が始まっても、私語があれば注意をし、話を聞いていない子がいれば声をかけ、作業が止まっている子がいれば教えに行き・・・と完全なマルチタスク、何度も言ってきた「生徒指導&教科指導のアクロバット」です。
仮に、子どもたちがきちんと席に着き、ノートを開いて、学習の体勢に入ったとしても、今度は、子どもたちはなかなか手を挙げません。これは当たり前のことで、強制力がない中で、子どもたちを席に着かせる時に最も有効なのは「空気」(同調圧力)です。同調圧力がかかった中で、今度は逆に「みんなと違うことをしろ」という逆ベクトルを要求しているのですから、そんなに簡単に子どもたちは動いてくれません。
研究授業をする時は、授業の計画書である「学習指導案」を書くのが慣例となっています。これは、授業のねらい、子どもたちの状況、1時間の授業の詳細な計画などをA4用紙で数枚にまとめるものです。あるベテランの先生が一つの学習指導案を書くのにかかった時間を記録してもらいました。指導案の協議も含め、実に20時間かかっていました。たった45分の授業をするのに20時間ですから恐るべき「逆」費用対効果です。
研究授業の後には、事後の協議会が行われますが、そこで話題になるのは、「子どもが積極的に手を挙げていてすばらしい」とか「黒板の書き方が分かりやすい」「子どもたちが生き生きと学んでいた」「指導者がこんなふうに問いかければもっと子どもたちの考えが広がった」などの表面的なことばかりで、子ども一人一人の中にどんな学びがあったかということがなかなか協議されません。
普通に考えれば、「目標とする力をつけたのは誰と誰と誰か」「つけられなかったのは誰と誰と誰か」「力がついたのは、教員のどのような手立てが有効だったからか」「力がつかなかったのはどのような手立てがたりなかったからか」ということが問題にされないとおかしいと思いますが、協議の話題はなかなかそうはなりません。目標への到達についてあまり強く言うと「ここは工場ではない」などの批判を受けるので、遠回しに促す程度にしますが、時間をかけて熱心にやっている割には、大きな穴の空いたバケツで水を汲んでいるような作業になってしまっています。
なぜこんなおかしなことになるかと言うと、やはり「生徒指導&教科指導のアクロバット」に戻ります。もし、すべての子どもたちが行儀よく、全力で学習に向かうのがデフォルトであったなら、協議会は、一人一人の子どもにどのような力をつけたかに目を向けざるを得ません。しかし、子どもたちの意欲も態度もまちまちな中で、まず学びのスタートラインにつくことが「大仕事」になってしまいます。「私語をしない」「手を挙げる」「発言をする」「友達の意見を聞いている」「言われた通り活動している」あたりが授業成立の最低条件です。それらをクリアした上で、「子どもが生き生きと活動している」「子どもの発言が知的」「友達と関わり合っている」「指導者の黒板が見やすい」「誰もが学習に参加している」というような「姿」を具現化することが最大の関心になってしまうのです。つまり、何度も言うように、 「生徒指導&教科指導のアクロバット」の中で「高度なアクロバット」を見せることが目的になってしまっています。そして、それができる人が次のリーダーになることで、「アクロバット」が永遠のテーマになり、本質的な部分がますます見失われるという悪循環です。
かなり乱暴な言い方をすれば、授業の目的は「子どもたちにねらいとする力をつけること」ですから、寝転がっている子がいても、教室から逃げていく子がいても、お絵かきしている子がいても、最後に全員にねらいとする力がついていればいいのです。
授業を成立させるために同調圧力を高め、ちゃんと勉強はしているけど、どのような力がついているかについては目をつむる研究では日本の未来は危ういです。
なぜこれが問題にならないかというと、日本の社会も平成の30年間で進化できなかったからです。つまり、同調圧力に与し、言われたことを正確に遂行する人材がまだまだ企業で使えるからです。しかも、自分で考えることをあまりしないので、反抗したり、集団で反対運動を展開したりしない使い勝手のよい人材です。
今後、企業はAIとロボットを徐々に導入し、従来型の人間を解雇していくことでしょう。流されている川の向こうに滝があっても、ゆったり流れているうちは気づきません。今、滝に向かって少しずつスピードが上がっているところです。
学校教育は「企業のための人材育成」をする場ではありませんが、一人一人が幸せになるという視点から考えれば、自己実現のための力をつけることは大いにすすめられなければいけません。そして、そのための力は文部科学省の言い方を借りれば「思考力、判断力、表現力」に裏打ちされた「生きる力」であり、企業側からの言い方をすれば「付加価値を生み出せる力」です。
「生きる力」をどうやって育てるのか
では、どうすれば「生きる力」「付加価値を生み出せる力」がつくのでしょう。この基本的な問題に対して、学校は悲しいくらいにノープランです。知識・技能であれば「反復」で育てられます。思考力を育てる一つの方法として「応用問題を解く」という例を考えます。教員が応用問題を出した時に、解ける子と解けない子がいます。自力で解決した子は、「思考力が備わっていた」もしくは「思考力が育った」と解釈できます。では、解けない子に対してどう指導すればよいでしょう。やり方を教えてしまった時点でそれは思考力から「技能」へと質を変えます。同様のパターンの問題を得意の「反復」で練習すれば、自力で解けた子と教えてもらって解けた子の差は見えなくなります。しかし、「思考力」という尺度で見れば、二者の間には相当な違いがあります。
これは私の自説ですが、思考力については「自力解決」が生命線です。自力解決までのトライ&エラーが思考力を高めるというのが私の解釈です。一方で、基礎を確実に積み上げれば応用力や思考力が育つという解釈もあるかもしれません。どちらが、合っているか間違っているかということより、こういうことを学校がこれまで全く研究してこなかったということが問題ではないでしょうか。
自力解決は、1単位が45分、50分の授業時間と極めて相性が悪いです。教員はできる子の解法をできない子に広めることで役割を終えたつもりでいますが、思考力を高めたのは「できる子」だけです。生まれながらにもっている力が高い子だけが伸びる指導では公教育の役割を果たしていません。ここで発生した知の格差は、その後の収入の格差と直結します。格差社会は学校が生み出していると言っても過言ではないと思います。
「学び合い」「主体的・対話的で深い学び」がまるで教育の最先端のような言い方をされていますが、グループの中の子どもたちの様子を観察すると、できる子からできない子への知識伝達の場で終わっていることは多々あります。できない子にとっては、教員から教えられるか、子どもから教えられるかの違いでしかありません。また、子ども同士の対話による課題解決を大いに困難にしているのが、同調圧力による統制です。グループで話をしていても「何となくみんなが賛成している」とか「かしこい人に従っていれば安全」という判断しかできないように子どもたちを育ててしまっているので、対話が成立しません。
私が【ポストコロナの学校改革】①〜⑤で繰り返して述べてきた、「秩序維持の脆弱性」「教員に求められるオールラウンド性」、そこから派生する「空気」(同調圧力)による統制と言った、教育制度の「ボトルネック」が教科指導にも及んでいます。
私は、まず従来型の「生徒指導&教科指導のアクロバット」研究授業はコロナを機会にすっぱりやめなければいけないと思います。理由は簡単です。これからは学ぶ場所は教室に限らないからです。リモートで授業を受ける子どもは、寝転がっていようが、漫画を読んでいようが、教室から懲戒を加えることはできません。同調圧力で縛ることもできません。教員にできることは、子どもたちの知的な欲求を刺激し、タブレットの前に子どもを引きつけ、一人ひとりの力を伸ばすにはどうすればよいかという学びへの特化です。特に思考力や表現力を高めるにはどうすればいいのかという昭和からの宿題に正面から向き合う時です。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
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【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任
前回、【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質で述べたように、学校は内外の圧力によって、抱えきれないほどの業務と責任を背負うことになりました。
特に私がこの30年間の「痛恨の一打」と思うのが、保護者の監督責任を学校が丸抱えしてしまったことです。
民法712条、714条をご存知でしょうか。(念のため条文をそのまま掲載しておきます。下線、筆者)
第712条【責任能力】
未成年者は、他人に損害を加えた場合において、自己の行為の責任を弁識するに足りる知能を備えていなかったときは、その行為について賠償の責任を負わない。
第714条【責任無能力者の監督義務者等の責任】
① 前2条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
② 監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者も、前項の責任を負う。
簡単に言えば、「子どもがお店の物を壊したら親が弁償する」という法律です。
少なくとも昭和においては、学校での問題行動は保護者が責任をもつ意識がもっと高かったです。例えば、学校でガラスを割れば保護者が弁償したり、友達にケガをさせたら菓子箱をもって保護者が謝罪に行ったりというようにです。
確かに、教員(民法714条②の監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者)にも責任は発生するのですが、それは主として授業時間を中心とした学校の教育活動場面が対象となります。
最近は、子どもが学校で起こした問題は、すべて学校の責任という見方が強くなっています。特に、学校でいじめや暴力があった場合、学校の安全配慮義務と代理監督義務が強く問われるようになりました。いじめ事故が生じた時に、報道カメラに向かって深々と頭を下げる管理職や教育委員会の姿がその誤解を定着させているようにも思えます。
そもそも学校が適切な指導を繰り返しているにもかかわらず、いじめや暴力行為、破壊行為をしたら(状況にもよりますが)それは保護者の責任となって然るべきです。実際、判例でも「児童・生徒による加害行為が行われた場合には、学校の責任と保護者の責任との両方が認められる場合と、学校の責任を否定しつつも保護者の責任が認められる場合とが多数を占めている」(2016「学校と法」坂田仰)とのことです。
民法の効力は昔も今も変わっていないので、裁判になれば、保護者の責任は免れないのですが、裁判以前の段階では「すべて」学校に責任があると言ってもおかしくないくらいの傾き方です。家に帰ってからのスマホトラブルでさえ、学校で調査、指導を求められるほどです。
この原因は、学校内部にもあります。学校のサービス業化に伴って、自虐的と言えるほど、責任を教員自らに向ける考え方が定着していきました。私自身も、子どもたちのトラブルがあった場合は、学校で加害児童から被害児童に謝罪をさせ、双方の保護者に連絡をし、特に被害児童の保護者には「学校の指導が十分でなく申し訳ありませんでした。」と謝罪をするのが当たり前になっています。もちろん、怪我をさせたり、物を壊したりと明らかな損害が発生している場合には、加害児童の保護者から謝罪や弁償を促します。(これらの対応は地域によっても異なるかもしれません)
先生方に「いじめの責任は誰にあると思いますか」と聞くと、誰もが「担任」「学校」と答えます。「いや。学校がきちんと指導していれば責任は保護者ですよ」と言うと、みんな驚きます。「知らなかった」と言います。
そもそも教育基本法には「第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」とあります。責任は明確に保護者に位置づけられているのです。
最近では、我が子が教室で暴れても「子どもとの人間関係を作れなかった学校の責任だ」と子どもへの働きかけを拒否したり、我が子が人に怪我をさせても「私は謝りに行きません」と突っぱねたりと、保護者としての役割を放棄したかのような姿が散見されます。(極めてごく一部の保護者です)
家庭学習についても学校の役割が高まっています。保護者の定番の要求は、「先生、うちの子家に帰ってもゲームばかりしているのでもっと宿題を出してください。」です。こんなふうに言われると、「ゲームを買ったのはご両親じゃないですか」と言いたくなりますが、ぐっとこらえます。子どもにもっと勉強してほしいと思うなら、問題集を買ってきて、横について一緒にやればいいのですが、嫌がる子どもをしつけることは時間も手間もかかります。コロナ禍でも、「プリントしか出さない」「プリントすら出さない」学校に静かな批判が起こりました。
昔の保護者は子どもに「勉強しなさい」と自主学習を命じましたが、今の保護者は「宿題したの」です。「勉強しなさい」と言っても「何すればいいの」と聞かれたら答えられません。そうなると「宿題」という強制力に頼るしかありません。ある6年生の保護者は担任に「中学校に行くと課題がたくさん出て、小学校のうちに家で勉強する力がついていないとついていけなくなるんです。中学校で落ちこぼれたら先生のせいですからね」と迫ったそうです。
確かに、学習指導要領には「家庭との連携を図りながら,児童の学習習慣が確立するよう配慮すること」と示してあります。この文言は「脱ゆとり」に舵を切り替えた、平成20年度学習指導要領から追加されました。しかし、家庭で過ごす時間の主体は、あくまで保護者と子どもであり、そこに学校の指導を持ち込むのは「治外法権」です。「家庭との連携を図りながら」「配慮する」という遠回しな言い方になっているのはそのためでしょう。担任は、宿題を出さなくても、保護者に「教科書の計算問題を家でもやってみればいかがですか」「漢字を繰り返し練習されたらいかがですか」とアドバイスする程度が適切と言えます。
しかし、サービス業化した学校は、「家での勉強まで見てくれる学校」を演じないわけにはいかず、保護者の求めに応じて大量の宿題を出すことになります。教員は宿題プリントを印刷する時間が増え、提出チェックの時間が増え、丸つけの時間が増え、休み時間にはやってこない子の世話、間違えた子への指導が増えました。
私は、現在の学校が求められる(さらに自らに課している)業務量や責任は、教員が処理できる限界を超えていると思います。それらをやりこなすのは「不可能」です。
数十人の子どもたちを狭い空間に閉じこめて、勉強を教えながら、生徒指導もし、安全も管理するという設定がそもそも不可能です。
仮にそのアクロバティックな指導をやり遂げる教員がいたとして、職員室の席を全てそのような教員で埋めるのは不可能です。
そんなこと保護者だって分っているはずです。「今年ははずれ」「今年は当たり」と担任を査定するのは、すべての教員が粒揃いでない事を理解しているからです。
しかし、実際に教室に問題が発生すると、「それは担任の責任」となってしまいます。不可能が「可能であるべき」と判定されます。
教員免許を持っているからと言って、授業の腕や生徒指導の力量が保証されているわけではありません。
教員採用試験に合格したからと言って、子どもに命令をする権限が発生するわけでもありません。
教室に入り、先生が前に立てば、どんな子もいい子になるという魔法はありません(ちょっとありますけど)。
しかし、何かあった時には、「学校はそれくらいやって当然だ」「教員だからそれくらいできて当たり前だ」という見方が湧き上がります。
生産能力と受注量のミスマッチは、企業では経営破綻の危機すら発生させます。
しかし、学校は残業手当を出さなくてもよいという合法的なブラック企業なので、教職員の長時間労働を使ってその危機を乗り越えます。
しかもです。
保護者の学校に対する満足度(2018年ベネッセ調査)は83.8%が「とても満足している」「まあ満足している」と非常に高く、これは2004年の73.1%から年々増加しています。またPISAの学力調査(2018)では、日本の高校生の学力は37か国中、数学1位、科学2位、読解力11位であり、堂々のトップクラスです。また日本は治安も極めてよく、殺人発生率が156か国中154位というデータがあります。
見事な教育の結実。すさまじいビハインドから、大変な成果を叩き出してしまっているのです。 「一体何が問題なの?」と言われると二の句が出ません。
一見、うまくいっているように見えるのは、それらが平均値だからであり、個人レベルで見ると、学校教育の犠牲になっている子どもはたくさんいます。それは特に、いじめや不登校などに顕著です。日本の子どもの「精神的な幸福度」が最下位から2番目の37位だったというニュースも衝撃的でした。順位が低かった理由の一つに自殺率の高さがあります。ここでも、個人にしわ寄せが来ている構造が見えます。
また学力格差も問題になっています。学力格差によって生涯賃金で億単位の収入格差が生まれます。今、コロナで非正規シングルマザーが厳しい生活環境にあることが明らかになっています。
弱者を切り捨てるかのような社会を作ってしまっているのも、また学校教育なのです。
学校は「不可能です!」と自ら声に出さないと、この泥沼からは脱出できません。少なくとも、保護者の監督責任くらいは、保護者に返していかないと健全な国家とは言えないでしょう。例えば、
「学校で人に迷惑をかけないように教えるのは保護者の責任である」
「家庭学習の主体は子どもと保護者である」
「スマホのトラブルの責任は本人と保護者にある」
というようなことを、社会通念として確立させていかなければいけないと思います。そもそもの制度は、そのようになっているのですから。
もちろん、保護者も大変なことは理解しています。母子・父子家庭、ワンオペ、多忙、収入格差、家庭内暴力、ネグレクトなど、多くの問題を抱えています。しかし、私は8〜9割以上の保護者は十分な教育能力を保持していると確信しています。その8、9割の潜在能力を引き出し、学校教育に活かしていくことが、これからの教育の改革の重要ポイントになると考えています。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を
【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか
【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質
今回は、平成の30年間でどのように学校が変質していったかを示します。「何が起こったのか」ではなく、それがどんな意味をもつのかを深掘りしているため、かなり長文になりますが、これからの学校の制度を考える時に、過去の検証は必須です。同じ轍を踏まないようにするためにも、一教員の目から見た平成の30年間におつきあいください。
学校の転機となった校内暴力
昭和の終盤、1980年代に発生した校内暴力は学校制度の根幹を揺るがす大事件でした。教員が子どもたちから暴力を受け、中学校の校内をバイクが走るという信じがたい現象ですが、学校の制度から考えれば必然です。そもそも子どもたちには教員に従う義務はなく、それまでゲンコツで押さえられていたものが、腕力なら自分たちの方が上と気づいた子どもたちが反抗したのです。つまり学校の秩序維持の脆弱性が露骨に顕在化したのです。
この時、学校は警察の力を極力借りずに教員の努力によってこれを鎮静化させました。警察の力を借りなかったのは、子どもたちを警察に突き出すことは、教え子を犯罪者にするということだからです。それはとりも直さず学校教育の敗北を意味しました。そこから何年もかけて、腕力ではなく子どもたちとの信頼関係を強めることで、子どもたちの荒れを抑えるという選択をしました。これ自体は理想的な方法でしたが、失うものもありました、それは、脆弱な秩序維持システムの再構築のチャンスを逃したということです。この時に、警察や行政と連携して、例えば物を壊した時は行政の担当者が保護者と面談するとか、暴力行為によって怪我をさせた場合には警察が本人と面談するなどのルールづくりをするという方法もあったのです。普通に考えれば、傷害行為や破壊行為は警察が対応することが相応ですが、感情が制度を上回る学校では教え子を犯罪者にしないという理論が勝ってしまいます。
この時から学校は、学校の秩序維持と信頼回復という大命題を丸抱えすることになります。保護者の力に頼らず、地域の力を取り入れるでもなく、警察をはじめとする行政の力と連携することもなく、学校だけの力で子どもたちを育てようという方向です。子どものためなら時間を惜しまずにやるべきという風潮も強くなります。またこの時に活躍した体育会系の教員がリーダーになり管理職に多く登用されていったことも、教員の情熱にたよる学校運営を加速させました。
学校のサービス意識と隠蔽体質
私が教員になったのは平成元年のことでした。小学校の教員です。当時は、若い男の先生ということで、保護者の間に「うまくできないこともあるだろうけど大目に見てやろう」という雰囲気がありました(当時は分かりませんでしたが今思うと許容幅が広かったです)。学校には若い世代の先輩が多く、「もっといい教育をしたい」という情熱が職員室にはありました。私自身も授業研究をよくしたし、学級通信を年間に100号発行するなどいわゆる熱血教師だったと思います。教員の自主性、創造性が生かされる時代であり、「感情が制度を上回る」ことがプラス面に働いてしまった時代でした。やる気を前面に出すことで、多少の失敗は保護者に大目に見てもらえることを戦略的に期待している部分もありました。ここで私の中に発生したのが学校サービスの向上という意識です。それは個人の中だけでなく、職員室の「空気」として確かに存在していました。
学校の信頼確立・信頼回復は、学校サービスの向上という形で発展し、行事の肥大化、ショー化が進んでいました。運動会の入場行進での一糸乱れぬ姿、学習発表会でのハレの姿、卒業式での最高に高まった姿・・・見える部分の強調をするようになります。よい面を見せて信頼を高めておけば何かあった時の担保になるという心理も多分にあったと思います。逆に、見せたくない部分は極力見えないようにするという心理が働きます。多少の問題が発生してもできるだけ学校内部で処理するという「空気」も確実に職員室にありました。悪くいえば隠蔽体質でした。
私は子どもに暴言を吐かれた経験があります。授業中に、せせら笑うように「バーカ」と言われましたが、私はそこで指導し切る自信がなく、それを受け流しました。私はそのことを同僚にも保護者に伝えませんでした。保護者も我が子がそのような状態であることは知っておきたいかもしれないし、学校と保護者で共通理解して指導すればよりよい子どもの成長につながったかもしれません。しかし、私の中には、「子どもに暴言を吐かれるような教員であることを知られたくない」「親に告げ口をするようで指導者として情けない」という心理が働き、保護者には知らせないという選択をしました。よいところはアピールし、見られたくないところは隠すという心理は、職員室全体にも個人の中にもあったのではないかと思います。
子どもたちの変化「学級崩壊」
平成の初め頃、先輩の先生方が「子どもが変わった」と口にするのをよく聞きました(もしかしたら、それは家庭用ゲーム機の普及によるものではないかと推測もできますが、これは賛否あります)。子どもたちの問題行動は校内暴力に見られる反社会的なものから、落ちこぼれ、不登校、いじめ、無気力・無関心という非社会的なものに変わっていきます。
1998年(平成10年)N H Kクローズアップ現代で「学級崩壊・小学校で授業ができない」が放送された頃から、学級崩壊が社会問題になりました。私のクラスは崩壊まではいきませんでしたが、学級運営のやりづらさはいつも感じていました。授業中に歩き回る子はいないものの、授業中の私語が止まらなかったり、指示を無視したり、言い返したりする子への対応にずいぶん悩みました。学級の雰囲気がよくないといじめなどの問題も発生しやすくなり、保護者に電話をかけては謝罪する日々もありました。
この頃から、学校で生じた問題は学校の責任という考え方が強くなっていきました。授業妨害をしたり、学校の施設を壊したりする行動は、法令上は「出席停止」の要件ですが、その原因を担任の指導力不足に帰着させる考え方が強くありました。また保護者も「学校で起こったことは学校の責任」という意識を強め、次第に学校教育の「傍観者」になっていきました。
学級崩壊や、崩壊まで行かなくても落ち着いた授業が成立しづらいという状況は、今も学校の深刻な問題として存在し続けています。しかし、これに関する統計調査を国で行っていないことや、学校のよくない部分は外部に見せたくないという心理が、これらの問題を見えにくくしています。また、子どもへの強制力がない中で教科指導と生徒指導を一人で同時にやるというアクロバットが学校の常識であり、それができない人は指導力不足と片づけられてしまうため、抜本的な解決に向かわないことも問題を根深くしています。これは個人の力量の問題ではなくシステムの問題です。
安全管理義務という重責
2001年(平成13年)には男が包丁を持って学校に乱入し、子ども8人を殺害する附属池田小事件が起こりました。この事件に伴い、学校では避難訓練に不審者侵入が加わり、警察などの協力も得ながら、訓練を行いました。刺又が学校に配備され、それを持って不審者役の警察官と対峙しましたが、凶器を持った正常な思考ができない大人から子どもたちを守るのはほぼ不可能であるという無力感を感じました。この時から外部侵入者からの子どもたちを守る安全管理義務という重責が学校にのしかかることになりました。本当なら、この時にすべての学校に警備員を配置するくらいの予算が学校についてもよかったはずですが、お金のかからない「刺又」と「避難訓練」で済まされました。このように人は配置されずに責任や負担だけが増えるという施策が平成にはいくつも出現します。
平成半ばから始まった急激な教育改革
2002年(平成14年)からの教育の大改革は教員の負担を際限なく高めていきました。この年に行われたのは、学校週5日制、「ゆとり教育」の開始(学習内容の3割削減、「総合的な学習の時間」の導入など)です。どちらも子どもたちや教員にとって望ましい改革のように思えますが、実際には様々な混乱を招きました。
まず、学校週5日制によって土曜日に子どもを地域で育てる環境を作らなくてはいけないという気運から、学校と地域の連携が叫ばれるようになりました。「開かれた学校」というスローガンのもと、学校に地域の人材を招き入れ、地域の行事に学校も積極的に参加するというとりくみが始まりました。子どもたちのためにと始まった休日のイベントに教員が子どもたちを連れて参加するのが当たり前になりました。イベント参加のための指導は学校で行うことになり、時には授業をつぶしてその練習をするというようなことが行われました。イベントの中には、主催者だった地域の担当者がだんだん参加に消極的になり、いつの間にか学校主導に近い形になったものもありました。給特法があるために、休日の参加に対して時間外勤務手当が支払われず、善意での参加になりました。その不条理も「子どもたちのため」と感情が制度を上回る学校の特性によってうやむやになっていきました。この頃から管理職は「地域あっての学校」という言葉を多用し、「地域にお世話になっている以上、休日のボランティアなど当たり前」のような言い方をするようになりました。私からすれば年に1回あるかないかの外部講師の代償として、何回土日を潰してイベントに参加しなければいけないのかという釈然としない気持ちでした。こうして、学校は社会教育の世話まですることになりました。
学校バッシングの風
学校が様々な要求を受け入れざるを得なくなる原因の一つに学校バッシングの風潮があります。話が前後しますが、平成3年にバブルが崩壊した時、地元の知り合いが「週2回しか出勤させてもらえない」とこぼしていました。相当の減給があったと思います。リストラに遭った人は直接は知りませんが、全国には少なくなかったと思います。民間の厳しい環境によって、公務員バッシングの風が強まりました。特に教員へのバッシングは強く、他の職業ではニュースにならない不祥事が大きく報道されました。
こうなると学校はさらに守りに入ります。保護者の要求にはできる限り応じ、行事では子どもの活躍が目に見えるように練習に一層力が入り、部活動も加熱化していきました。また、社会全体の人権意識も高くなり、徒競走ではゴール前で手をつないで一緒にゴールしたり、劇の中でシンデレラが10人だったり、多様な考え方への対応に苦慮する姿がありました。
そして、2002年(平成14年)に、文部科学省から夏休みに教員の研修を増やすよう通知が出ます。理由は、「夏休みの平日に教員が家で洗車をしている」という新聞投稿があったからと聞きます。通知には「今日、教育行政においては、その透明性を高め、公教育に対する地域住民や保護者の方々の信頼を確保することが益々重要」「夏季休業期間の教員の勤務状況について地域住民や保護者等の疑念を抱かれないことはもとより、この休業期間を教職員の資質向上等に有効に活用し、情報公開等においても十分理解を得られるよう、勤務管理の適正を徹底することは極めて重要」(下線筆者)と書かれており、学校バッシングの強い風とそれを恐れる行政の姿勢が読み取れます。こうして課業期間は多忙で、夏休みさえ十分に休めない働き方が定着していきます。
学力向上ブーム
平成10年学習指導要領の改定によって2002年(平成14年)から導入された「ゆとり教育」は「学習内容の3割削減」という文部科学省の声高な宣言(実際は3割も削減されたわけでなはい)によって最初から強い逆風が吹きました。開始からわずか1年後、2003年(平成15年)のP I S A調査で日本の順位が下がったことでまだ始まったばかりのゆとり教育に急ブレーキがかかりました。「学習指導要領は最低基準」という方針が打ち出されました。決定打となったのが、2006年(平成18年)のP I S Aショックです。数学6位(前回2位)、科学10位(同6位)、読解力15位(同14位)と2003年からさらに下がったことで、反ゆとり、脱ゆとりの声が高まり、2007年(平成19年)からは全国学力・学習状況調査が行われました。この調査で国は都道府県別の結果を公表し、全国の学校関係者に衝撃が走りました。ここから全国一斉の学力レースが始まったのです。私の勤務する富山県でも学力向上のための研修が始まり、市町村毎の対策、学校毎の対策など、異常なとりくみが始まりました。今まで読書や運動に使っていた時間をプリント学習に充てたり、宿題を増やしたりしました。そのために教材を準備する時間が増え、回答のチェックや採点、やり直しの時間などを確保するのに苦慮しました。競争によって行政は正常な判断ができなくなり、なりふり構わない姿を恥ずかしげもなく世に晒しました。
この後2009年、2012年、2015年とこのPISA調査の順位はV字回復を成し遂げました。P I S Aの出題傾向に合わせた活用問題を出してテスト慣れさせた成果でしょう。この時、2006年当時に読解力が1位だったフィンランドをすでに抜いているのですから、普通ならここで学力向上への取り組みは終わってもよいはずです。しかし、レースは都道府県対抗にステージを移しており、競争は永遠に終わりません。
保護者が「パートナー」から「受益者」に
平成の中頃から「アカウンタビリティ」「説明責任」という言葉が学校内外でよく聞かれるようになりました。その頃は、社会全体にも「説明責任」を問う風潮が高まっていました。スーパーマーケットや病院に「お客様の声」コーナーが設置され、クレームの声とそれに対する対応策や謝罪が掲示されました。
学校も税金で運営した成果を公表すべきと学校教育法が改正され、学校教育法施行規則には、学校の自己評価、保護者など学校関係者による評価を行うことが示されました。例えば、保護者向けのアンケートに「学校は子どもたちに分かりやすく勉強を教えていますか」、子ども向けのアンケートに「先生は子どもの相談にのってくれますか」などの質問をし、集計し、公表するというものです。当時は「また仕事が増えたか」くらいにしか思っていませんでしたが、今思えば深い部分で学校と保護者の関係を変えました。これによって、かつて学校と共に子どもたちを育てる「パートナー」だった保護者は、平成の初め頃から「傍観者」となり、平成半ばからは「受益者」へと立ち位置を変えていったのです。
※誤解のないように付記しますが、今も多くの保護者は「パートナー」なのです。ただ、全体的な傾向として、傍観者的な意識(学校での子どものことは学校がやってくれる)を強めておられる方、受益者的な意識(学校は子どものことは何でもやるべき)を強めておられる方が増えてきたという意味です。
「モンスターペアレント」が流行語になったのも同年です。多くの保護者は「モンスターペアレントなんて許せない」「自分はモンスターペアレントにはならない」と言っていましたが、過剰な要求はしないまでも、受益者意識は確実に浸透したと思います。
「もっと宿題を出してほしい」「もっと部活動をやってほしい」「朝早く登校させてほしい」という要求は、家庭での養育時間を短縮し、学校の長時間労働を助長しました。
「ゲームばかりして困っています。先生からも注意してください」
「近所の子の自転車の乗り方が危ないのですが、学校で指導しないのですか」
「家に遊びに来た子が、玄関で靴も揃えないし、おやつを出してもお礼も言いません。学校で友達の家に遊びに行く時のマナーを指導してください。」
別にクレーマーでもなくモンスターペアレンツでもない保護者が悪気もなく当たり前に学校に相談(要求)をもちかけます。言い方は低姿勢ですが、「学校は何とかしてくれるはず」という期待に満ちています。
そして、そのような要求があった時に、学校は「承知しました」とその要求に応えました。私も「それって学校の仕事か?」と多少の疑問をもちながらも受け入れました。その方が、面倒なく、手っ取り早く問題解決ができるからです。「いや、それは学校ではなくてご家庭で指導してください」という説得は時間がかかるだけでなく、下手をすれば大きなクレームを発生させかねません。また、当時の管理職の中には、保護者の要求に先回りして様々なサービスを提供することで高い評価を受けた人も少なくありませんでした。単に仕事が増えただけでなく、クレーム対応、クレーム予防のような「疲弊する業務」が増えました。
子どもたちの問題行動と教員の多忙の負の連鎖
これも私の経験ですが、宿泊学習や運動会など大きな行事や、研究発表会など教員が多忙になっている前後に、子どもたちの問題行動が発覚することが自分にも、周りの先生にも明らかに多いです。養護教諭からも、「先生方が忙しくなると保健室に来る子は増える」と聞きます。忙しくて目が届かない中で、ケンカ、暴力、靴隠し、校内での盗み、いじめなどが起これば教員は事実の把握や指導、事後対応に追われ、負の連鎖です。それだけではなく、教室が静かにならない、教員の指示に従わない、暴言を吐く、教室から出ていくなどの恒常的な問題行動はボディブローのように教員を疲弊させていきます。
2010年(平成22年)に文部科学省が発行した「生徒指導提要」には、増加し続ける問題行動への対応について示されました。この生徒指導提要は「学習指導要領の生徒指導版」とも言えるもので、学校制度が始まって60年以上経って発行されていること自体、そもそもの教育制度に子どもたちの問題行動への対応が想定されていないことの証左です。しかもそこに示されたのは、「児童生徒理解を深めよ」「望ましい人間関係を構築せよ」「よりよい集団を作れ」「個や集団に応じた指導をせよ」「児童生徒に自己存在感・自己肯定感を与えよ」「自己指導能力を育成せよ」という理想論のオンパレードです。そもそも子どもたちと向き合えないことで問題行動を発生させていると感じている私には言いようのない違和感がありました。
極めつけは、何かの事件が発生すると関係者が全員集まって対策を行う「チーム対応」が強く打ち出されたことでした。つまり、あるクラスでいじめが発生したとすると、生徒指導主事、クラス担任、学年主任、教頭、養護教諭などが集まって対策を進めるのです。数クラスで授業を自習にして子どもから聞き取りするようなことも発生します。さらに放課後は「ケース会議」といって、関係職員が集まって、子どもの支援や保護者対応について協議します。子どもたちが落ち着かない学校だと、この会議が連日行われることになります。問題が発生したクラスの担任は、多くの場合、単独での指導に行き詰まっていますから、このようなチーム対応は非常に心強いのですが、関係者は長時間労働と強い心労に苦しむことになります。
本来なら専門の人員を加配すべきほどの状況であるのに、「力を合わせて自分たちだけでやれ」と宣言されたのでした。これも人員はつかずに責任と負担が増える典型的な例です。
生徒指導提要発行の2年後、2011年(平成23年)に「大津いじめ事件」が起こります。この時に問題となったのは、学校のいじめの放置と隠蔽です。学校の措置は全く許されるものではありませんが、いじめを放置せざるを得ないほど校内で教員に余裕がなかったことは想像に難くありません。自殺に追い込むほどの生徒がいたのですから、通常の生徒指導も困難を極めたでしょう。教員の時間外勤務時間も相当であったと思われます。
生徒指導提要には、警察との連携という言葉が何度も出てきます。しかし、前述のように「子どもを犯罪者にしたくない」「保護者・地域の信頼を失いたくない」という二重の縛りの中で、何とか学校の中で対応したいと考えてしまう学校の事情を生んだのは学校だけの責任とは私はとても思えません。
大津いじめ事件から2年後の2013年(平成25年)に「いじめ防止対策推進法」が施行されました。一言で言えば、いじめ防止の責任を明確に行政と学校に位置づける法律になっています。学校では定期的ないじめ調査も始まりました。子どもがいじめ調査に「いじめられている」と答えれば聞き取りを行い、「挨拶をしたけど返してもらえなかった」「こっちを見て笑った」などの訴えに、丁寧かつ慎重に対応していくことになります。学校には「怪我をさせたら30万円以下の罰金」などの「規準と罰」がない世界ですから、一つ一つの事例に白黒の線引きから始めなければならず、困難を極めます。安全配慮義務責任とそれに対応するための負担がますます高まっていきました。
唯一、問題行動への支援として、近年、スクールカウンセラー(S C)と、スクールソーシャルワーカー(S S W)が全校に配置されていますが、S Cは週1回4時間、S S Wは月1回4時間程度の頻度であり(地域によって異なる)、いつ問題行動が発生するかわからない学校では活用が十分にできていないことが指摘されています。
2013年(平成25年)からは「脱ゆとり」を掲げた学習指導要領の運用が始まり、小学校では高学年で外国語活動が始まりました。英語の教員免許がない小学校の教員が英語を教えることについて、現場からは反対の声が上がりましたが、文部科学省の「学級担任ががんばる姿を見せてモデルとなり学び方の手本となる」というこれまでの教科指導の考え方を無視した論に封じこまれました。ここでも、授業の増加に伴う人的措置はありませんでした。
2020年(令和2年)からは、さらに「脱ゆとり」に拍車がかかり、小学校の高学年に英語、中学年に外国語活動が無理やりねじ込まれ、高学年の時間割は週30コマすべて埋まりました。年間1015コマは中学生と同じ時間数です。ここにはわずかに英語専科教員を配置しましたが、全国に1万9000校ある小学校に3000人では話になりません。
問題が生じるたびに対処療法的に施策を追加し「人員がつかないが責任と負担を増やす」行政のやり方は、じわじわと教員を苦しめました。教職員の精神疾患による病気休職者が1999年(平成11年)あたりから急激に増加し、2008年(平成20年)あたりで高止まりしているのは、このような施策による高負荷があったことは否定できないと思います。
平成の学校の変質をまとめると、
- 学校のサービス意識が高まり、行事などのショー化が発生した。
- 保護者が「パートナー」から「傍観者」「受益者」へと立ち位置を変えていった。
- 社会教育の範疇まで業務が増えた。
- 問題が発生するたびに新しい施策が行われ、人員がつかず、責任と負担だけが増えていった。
- 学力競争や学校評価によって、追い立てられるように対策、対応を余儀なくされた。
- 子どもの問題行動と教員の多忙の負の連鎖が起こった。
という極めて深刻な状況です。(本当は、これに「特別な支援が必要な子どもの増加」「部活動の加熱化」という重大な事態も並行して生じているのですが、これは別にとりあげます。)
長い時間をかけて変化したものは、それを是正するのに大変な時間と労力を要します。しかし、それを一気に可能にするのが「非常事態」です。まさに、コロナの今です。例えば、今、「行事のショー化」を一気に是正するまたとないチャンスです。それを分かっている人は、運動会を「ショー」から「学習」に転換していますが、分かっていない人は、感染防止に力を注ぎ、できるだけこれまでの運動会に近づけようとするため「運動会+コロナ」の大負担が発生しています。今、教育が持続可能になるかならないかの分水嶺にあるのです。
【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック
【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を
【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか