学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

「#学校ってなんだろう」を読んで

「#学校ってなんだろう」という本があるのを知って早速取り寄せた。学校の存在意義について20人の教育関係の専門家がそれぞれの立場から意見を述べている。この企画は実に意義深いと思う。
さて、読み終わって驚いたのは、私と同じ考え方が一つもなかったことである。
20人の考え方はそれぞれ違っておりそれはとても望ましいことだと思う。またそれぞれをグルーピングすればいくつかの「似たグループ」に分けられる。私の考えは誰とも似ていない。
そこでちょっと不安になった。
「もしかして大変な勘違いをしているのではないか」
そこで私の考えをまとめたのでぜひご意見いただきたい。
 
ちなみに20人の方々のご意見は次の通りだ。
 
昆虫ハンター、タレント 牧田 習さん 
「学校は可能性を引き出し、将来の選択肢を広げてくれる場所」 
 
公認心理士 佐藤めぐみさん 
「学校は子どもたちの居場所。社会性は触れ合いから得られる」 
 
児童精神科医 前田佳宏さん 
「学校というパッケージには、生きていくためのスキルが詰められている」 
 
弁護士 鬼澤秀昌さん 
「学校には知識を獲得し、対話をする機会が平等に与えられている」 
 
家庭教育師 藤田郁子さん 
「学校は、家族以外に自分を愛してくれる人と出会い、世界を広げる場」 
 
陰山ラボ代表 陰山英男さん 
「大切なのは学校?教科書?学習は新たな成長を遂げるときを迎えている」 
 
臨床心理士 村中直人さん 
「学校へ行かなくても「学ぶこと」を絶対にやめちゃいけない」 
 
コーチ 白土詠胡さん 
「学校はリーズナブルに不快や不自由を体験できる場所」 
 
カウンセラー 桒原航大さん 
「学校は自分らしさを知り、人と関わり合う力を身に着ける大切な居場所」 
 
タレント パトリック・ハーラン(パックン)さん 
「好きや得意を極めたいなら、まずは学校で"脳みそ"を鍛えよう! 」 
 
アンガーマネジメントファシリテーター 長縄史子さん 
「人との違いを学び、心を成長させることに学校の存在意義がある」 
 
心理士 車 重徳さん 
「学校の役割は、知識力・集団行動力・コミュニケーション力を鍛えること」 
 
プログラミング教室主催 福井俊保さん 
「学校は子どもたちが地域とともに成長することを学ぶ場所」 
 
教育社会学者 内田 良さん 
「学校が安全安心な場所になるような学校の現状を見つめ、それぞれが意識改革を」 
 
「学校がつらすぎるなら行かなくていい。でも学ぶことは止めないで」 
 
哲学者・教育学者 苫野一徳さん 
「"みんな一緒に"という幻想から脱却し、これからの教育を知ることを始めよう」 
 
いじめ相談員 小野田真里子さん 
「"人生は一冊の問題集"学校もその一ページ」 
 
フリースクールカウンセラー 荒木信雄さん 
「学校は社会性・勤勉性を培い、人間関係を築き心を育む場所」 
 
臨床心理士 久保田健司さん 
「学校は"いざというときにSOSを出せる自分"を育む場所」 
 
教育学者 萩原真美さん 
「ひとつの方法に固執せず、多様性のある個別学習で学びの可能性は広がる」 
 
以上である。
 
改めて教育に期待されていることが際限なく広がっていることが分かる。「学力」「社会性」「集団行動力」「コミュニケーション力」「かかわりあう力」「心の成長」「勤勉性」「安心安全」「居場所」・・・。広がり過ぎて根本が見えにくくなっている。根本に戻って「なぜ学校があるのか」と考えるところから私の考えを述べる。
日本の近代教育のスタートは明治5年の学制発布。その背景にあるのは富国強兵。当時は「学校ってなんだろう」と問われれば「他国に負けない国を作るため」と即答である。
その後、戦争の反省から、学校で学ぶ意味は、「国のため」から「個人のため」に軸足を大きくシフトした。20人の論客はすべて「個人のため」を軸に論を展開している。
私は「個人のため」を否定はしないが、軸足は「個」と「国」の間が望ましいと考えている。そして「国のため」というよりも「社会のため」という捉え方をしている。「社会のため」の中には「家族のため」「友達のため」「地域のため」という狭いものも、「世界のため」という広いものもある。また「国のため」にという考えを否定するものでもない。簡単に言えば、「自分」と「自分以外」ということになる。
「国」に軸を置くことが極めて危険なことは実証ずみだが、極端に「個」に軸足を置くこともまた危険である。「個」は自由を基盤としている。それは放置された自然界の弱肉強食の世界だ。弱肉強食は自然界ではバランスが取られた状態であるが、人間社会にこの原理を投入すると困ったことになる。それは「格差」が発生するからである。格差は世代を追うごとに拡大する。食べ物に困るほどにまで収入が落ちると「基本的人権」を守れない。日本が今世界の中でもかなり安心して過ごせる社会であるのは、一定の平等が保たれているからである。そしてこの一定の平等を必死で守っているのが学校であることはあまり認識されていない。
現在の学校は時に「軍隊」と揶揄されるほど、「個」を殺し、「平等」を求める。理念は「自由な個人」であるはずだが、学校運営に子どもの自由はほぼ「ない」。そうしないと学力の格差が開き、校内の安全も守れないからだ。同調圧力や校則で自由を規制することで、子どもの学ぶ権利を守っている。できるだけ多くの子に一定水準の学力をつけ、勉強が苦手な子にも「根性」「協力」「責任感」などが身につくようにと行事や部活動などの場を広げた。つまり、学力=認知能力の向上を目指し、同時に努力や向上心などの非認知能力の補完にも力を尽くした。そうすることで学校を卒業した後に、子どもたちは自分の力で生きていく「自由」を得る。
日本の教育は教えこみだと長く批判されてきた。しかし、OECDの国際成人力調査PIAACによれば、日本の成人の学力(読解力、数的思考力、ITを活用した問題解決能力)は世界1位である。社会を支える力を育むという点では、日本の教育は成功していると言っても過言ではない。教えこみで育った人材も今のところ企業の中で立派に活躍している。
もちろん今の閉塞的な学校のあり方が子どもたちにさまざまな歪みをもたらし、「いじめ」や「不登校」で涙を流している子があまりに多いことは重々承知している。しかし、これを自由の側にシフトすれば、今度は別の子が「貧困」や「犯罪」によって涙を流すことになる。一見歪んだような今の日本の学校のあり方は、一つの適正解なのではないかとも思える。
私と20人の違いは、軸足が「個」にあるか、「個と社会の間」にあるかという些細なことかもしれない。「美味しいから食べる」か「健康のために食べる」かという意識の違いで、食べることには変わりなければ結果も変わらないという見方もできるだろう。
ただ、学校教育という巨大な機能によって今の日本では安定した生活を送ることができていることにもう少し自覚が必要ではないだろうか。今の学校に必要なのは、「平等」の歪みによって涙を流している子に手をさしのべることであって(国が教育にお金をかけないことが本当の問題!)、安易に「自由」にシフトすることではないと私は考えている。
令和の教育改革が個人の幸せや過度な人権意識によって、この平和を無自覚のまま崩壊させることになったら、それは取り返しのつかない悲劇だと思う。
 
そして、もし私が「#学校ってなんだろう」の20人に選ばれたらこう書く。
 
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小学校教員 能澤 英樹
「あなたが学校で学ぶことで、幸せな社会ができる」
 
学校はみんなが幸せに暮らす社会を作るために必要です。だから、可能な範囲で(決して無理し過ぎず)がんばって学校で勉強してほしいと思います。
例えば国語。私たちは日本語という共通言語を学ぶことでコミュニケーションが可能になっています。あなたが日本語をよく分かっていなかったり間違えて覚えていたりすると、あなたも周りの人も困ることになります。逆にあなたが豊かな言葉の使い手であれば、会話や投稿でみんなを幸せにすることができます。
算数がきらいな人は多いかもしれません。でもみんなが数のルールを知らなければ買い物も家を建てることも待ち合わせをすることもできません。二次方程式を使うことは生活の中にないかもしれませんが、二次方程式を解くために使ったあなたの頭はいろいろな場面で世の中に貢献することでしょう。
社会も理科もです。会話の中で「それってまるで江戸時代」と言われた時に、「なるほどー」と笑い合えたら楽しいです。常識としてアルカリ性とかペリーとかテコの原理とか知っていると潤いのある生活になります。
世の中で働いているほぼすべての人が、学校で習った基礎基本の上に専門の知識や技能を積み上げてお互いの生活に貢献しています。
 
そして日本では多くの人が気づいていませんが、みんなが学校で学んできたことで、日本は安心して暮らせる国になっています。
もし「勉強しない方が幸せ」「自由に生きる」と言って半数の人が学校に行くことをやめてしまったらと想像してください。勉強をしなかった人を雇ってくれる企業はとても少ないです。あったとしても給料が十分ではなかったり、危険だったり、体に負担がかかりすぎて長くは続けられない仕事だったりします。収入が得られない人は困った末に間違った方法でお金を手に入れようとするかもしれません。実際、このように学力の差や収入の差によって治安が悪くなってしまう国はとても多いのです。
また、高度な知識・技能が必要な仕事に人が足りなくなるといろいろな問題が起きます。例えば、食べ物が足りない、電気や水が届かない、壊れた物が直せないなどの不都合が出てくるでしょう。これもまた安心して暮らせる社会とは言えません。
一方で勉強をした人には、いろいろなチャンスがやってきます。もちろんすべての人が自分のやりたい仕事に就けるわけではありませんが、学校で勉強してきた人には、いろいろな仕事を選ぶ「幅」があります。こうして完全とは言えませんが、一人一人が活かされることで世の中が回っていきます。中には、障害をもっていて仕事ができない人もいます。もしかしたら、今は健康なあなたも何かの事故で働けなくなるかもしれません。だから、生活保護といって働けない人や収入が少ない人に金銭的な支援をする制度もあります。それは、みんなの収入の中から出し合った税金で成り立っています。
日本が安全で安心な国でいられるのは、学校がみんなの力を伸ばし、活躍するチャンスをもたらし、誰もが働くことによって支え合う社会ができているからです。
 
日本国憲法には3つの「義務」があります。
「子に教育を受けさせる義務」
「勤労の義務」
親(保護者)が子に教育を受けさせる義務がありますが、子どもには勉強しなければいけないという義務はありません。子どもが学校に行かないと親が罰せられることはありません。
勤労の義務とありますが、仕事に就かないからと言って罰せられることはありません。
仕事をしなければ収入がないので、所得税を払う必要はなくなります。だからと言って罰せられることはありません。
アルバイトで自分が生きていける最低限の収入を得て税金をほとんど納めずに生きることもできます。働かずに生活保護を受けて生きることもできます。でも、そういう人ばかりになると税収が減り、国の支出が増えますので、税金を基盤とした社会が崩れていきます。でも、学校で「みんなのためになることをすると自分も幸せになる」ことや「みんなが幸せになるためには自分が我慢しなければいけないこともある」ことを学んだ人は、義務でなくても働くことを選びます。そういう意味でも、今の社会を支えているのは学校なのです。
確かに学校は息苦しい部分も多いです。改善していかなければいけない部分もたくさんあります。公立学校が合わない人のために、フリースクールオルタナティブスクールなどの環境も少しずつ整いつつあります。様々な選択肢を使って学び続けてほしいです。
150年の間、先人たちが学校で学び、その力を活かして働いてきたからこそ、現在の安全・安心で豊かな社会が作られてきました。
学校で勉強しましょう。幸せな社会をみんなで作るために、あなたの力が必要なのです。
 
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以上が私の主張であるがご意見あればぜひ!
 
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【ポストコロナの学校改革15】多様性と向き合う③問題行動や不適応と多様性の境界

平成元年の学習指導要領では「個性を生かす教育の充実」が強く打ち出されました。子ども中心・個性重視の考え方が求められる中で、当時「どんな個性も認めるのか」ということが度々議論になりました。「理科が得意」「走るのが得意」「人に優しい」というポジティブな個性を積極的に認めるのであれば、「乱暴」「自己主張が強い」「ルールに従わない」などの個性も認めなければいけないことになるのかという当然の疑問が生まれます。
1980年代に発生した校内暴力時代から10年以上が経過していましたが、学校は子どもたちの問題行動に常に頭を悩ませていました。問題をもつ子に寄り添う「カウンセリングマインド」という言葉も浸透してきた頃でしたが、望ましくない行動までが「個性」なのかという疑問に多くの教員が迷いました。
「茶髪も個性なのか。」
「勉強しないのも個性なのか。」
「人に迷惑をかけるのは少なくとも個性と認めてはいけないだろう。」
「勉強が苦手なことも個性にしてしまっては教員の責任放棄につながるのではないか。」

堂々巡りの議論の中でも、子どもたちの問題行動は容赦なく発生し、いつしか誰も「個性」ということは問題にしなくなり、学校では画一性を基盤とした指導が継続され時には強化されていきました。
「多様性」はまさにこの「個性」論争の再来です。この間、いじめ、暴力、不登校などの認知件数は年々上がり続けています。
 
では、多様性と問題行動・不適応との境界はどこにあるのでしょう。
まず、多様性を認めるということは、基本的人権を尊重するということに他なりません。

不登校をはじめとする不適応については、そもそもが問題行動ではありません。本人の多様性を認めるところからスタートし、その上で自己実現を図れるように十分な支援が必要です。学校という枠に、本人を当てはめていくことは絶対に避けなければいけません。
一方で、いじめや暴力など、他人に危害を加える問題行動は多様性として許されるものではありません。基本的人権は「公共の福祉に反しない限り」認められるからです。
逆に、髪の毛の色や服装などは、よほどのことがない限り「問題行動」に入れることはできません。「地毛証明書」や生来の髪の毛の色が薄いからと言って黒く染めるような指導は人権侵害です。校則が憲法を上回るということは、そもそもあってはならないことで、訴訟になればブラック校則と呼ばれるルールは全滅でしょう。

多様性がどこまで許されるかを定義するならば、
「人に迷惑をかけない範囲での言動は認められる」「自身の安全が守れる範囲で認められる」
となるでしょう。

 
しかし「白」「黒」で判断できるものばかりではないのが現実の悩ましいところです。
例えば、
・ある髪型が流行した時に、少しでも他人と差をつけようと勉強そっちのけでアレンジ合戦が始まり、勉強への意識が薄れてしまったらどうするか
・「先生の授業、面白くないから廊下で自習します!」と言った子に連なって、ほとんどの子が廊下で自習し始めたらどうするか。
・高級腕時計をしてきた子がいて、学校内で紛失したらどうするか。
・1週間に1回しかお風呂に入らない子がみんなから避けられたらどうするか。
このように、個人の自由裁量の範囲であっても、その言動が他者へ影響を及ぼすことがあります。
 
ブラック校則にかかわる論争の中で、「校則をもっと緩めるべきだ」という主張はもっともなのですが、このような問題が発生した時に誰がその後処理をするのかというと、結局は学校です。
 これまでは、そのような場合に、すべて学校が制限をかけていました。
「このような髪型は禁止します」
「授業中は教室を出てはいけません」
「学校に時計を持ってきてはいけません」
「体を清潔に保つために、毎日お風呂に入りましょう」
しかし、多様性を認めるというのであれば恣意的な規制はこれまでのようにはできません。 
ではどうするかというと、「対話を通して当事者らが考えて決める」ということになります。多様性を担保しながら問題の着地点を見つけるには対話しかないというのが私の結論です
しかし、カリキュラムで飽和している学校には、すでに対話をする余裕がありません。

いくつかの学校で子どもたちの求めに応じて対話の中で校則を見直す動きもありますが、1年間の議論の末に変わったのは、「髪の毛を束ねるゴムの色が黒だけではなく、紺や茶などの地味な色でもよくなった」などという事例もあるようで、ゴールまで何十年かかるかわかりません。
前回のブログでも述べたように、あと何とかできそうなのは大量の学習指導要領の精選しかありません。これは「教育を受ける権利」と多様性の根本である「自由権」の対立であり極めて難しいです。
 
私はまず必要なのが、保護者への「権限委譲」だと思います。
「髪型は保護者とお子さんで話し合って決めてください」
どうやって勉強するか、持ち物をどうするか、お風呂は週何回にするかなど、すべて学校で決めてしまうのではなく、親子の話し合いで決められる範囲は任せるのです。
 
コロナ休校の期間に子どもにスマホを与えた家庭が増えました。案の定、学校再開後にラインいじめ、友達の嫌がる姿の撮影などのトラブルが多発しています。保護者から「スマホでいじめに遭っているようだ」という相談で発覚しますが、学校が「高価なスマホを与えられたのはご家庭ですよね」と対応を拒否しても、強くお願いされて結局学校が調査・指導をしなければいけないという事例を聞きます。捜査権のある警察でも困難なスマホの中の事実確認を丸腰の教員がやるのですから、対応する多くの教員が疲弊しています。

私は、スマホのトラブルは保護者の責任で解決するのが筋だと思います(これについては、PTAの役員の方にアンケートを取ると9割近くの方にご賛同いただけました)。学校は協力することはあっても、最終的な問題解決は保護者同士でやるという事前の取り決めが必要です。スクールカウンセラー(SC)、スクールソーシャルワーカー(SSW)、スクールロイヤー(SL)を積極的に活用するのも有効です。保護者への「権限委譲=責任委譲」は多様性の推進と子どもの自立を同時にすすめる好手になると考えます。もちろん保護者の教育力が低下しているのは承知していますが、教育力を保っている家庭では移譲を推進し、そうでない家庭を行政やSC、SSW、SLなどが支援することも必要です。
 
また、このように保護者に権限と責任を委譲したからと言って、学校でのトラブルは尽きることはないでしょう。むしろ多様性を認める中で新たな問題がもちあがることの方が多いでしょう。その度に対応を職員会議で決めるのではなく、子どもたちに委ねることも必要です。例えば「先生の授業が自分に合わない場合は廊下で学習してもよいことにするか」などを子どもたちが学級会、生徒会などの中で決めていくということです。教員が子どもを廊下で学習させると体罰となりますが、子どもが自ら出て行った場合はどうなるのか、SLに解説してもらえばよいです。その場合に起こりうる問題も子どもたちが予想し「廊下に出る時に友達を誘わない」「廊下では静かに学習し校内を勝手に移動しない」などの付帯決議も加えます。前回のブログでも書きましたが、年間1000余時間の教科等の1割を割けば、100時間の対話の時間を生み出せます。教科の課題解決に比べて、生活にかかわる課題解決はそれ自体がこれからの時代に必要なパワフルな学びになります。以前にこのブログでも話題にした「プロジェクト型学習」と考えればよいです。「教育を受ける権利」と「自由権」の両立が可能になります。

 
もっとも避けなければいけないのは、平成の「個性」論争のように、何もせずに従来路線を踏襲することです。そして、もし改革を決断するのであれば、コロナ禍の今がもっともやりやすいのです。

 

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【ポストコロナの学校改革14】多様性と向き合う②大量の学習内容と多様性の両立

前回のブログでは、学校が「多様性」と向き合った時に壁になるであろう3点を提示しました。
 
(1)大量の学習内容と多様性の両立
(2)問題行動や不適応と多様性の境界
(3)教員の多様性
 
今回は(1)について述べます。
学習指導要領には、大量の内容が示されています。どれも大切なことばかりですが、もしこの指導が完璧に成功したとすると、「画一化」された人間が大量に生産されることになり「多様性」と逆ベクトルです。
今、コロナ禍の中で、「感染防止」と「経済の活性化」が二律背反のように私たちを苦しめているように、大量の学習内容と多様性そのものが相入れません。
もう少し具体的に説明しましょう。例えば、学習場面で、静かに自分との対話の中で考えたい子がいる一方で、会話をしながら発想を広げたい子がいたとします。どちらも間違っていませんが同居できません。これまでの画一的な学級では、教員が「では、この時間は静かに考え、その後に話し合う時間を取ります」などの仕切りをして解決してきました。これは多様性を尊重しているのではなく、納まりのよい画一的な型に当てはめただけです。
多様性を尊重するということは、個人の意志(時にわがまま)を何でも認めるということではありません。お互いの意志を分かり合いながら、折り合いをつけていく過程そのものが多様性の尊重です。静かに学習したい子と会話をしたい子の対話の中で、例えば時間を区切るとか場所を分けるなどの適正解を求めていく過程が重要です。今の学校教育で最も欠落している部分です。欠落した理由は「時間がない」です。
「多数決」は民主的な方法ですが、多様性も尊重するならば、少数意見の声にも耳を傾け、少なくとも少数派が精神的な苦痛を受けないようにする配慮が必要になります。学級会で「お楽しみ会に何をしますか」と議題になった時に、ドッジボールをやりたいと30人が手を挙げ、クイズをやりたいと10人が手を挙げた時に、多数決と言ってドッジボールにしてしまえば話し合いは20分で終わります。しかし、クイズ派の中に飛んでくるボールが怖くて耐えられないという子がいた時に「じゃあどうしようか」となると、1時間を超える場合もあるでしょう。
しかも、学校生活全体の中で、多くの子どもたちが多様性を認め合いながら共存するためには、大量の課題解決が必要になります。それだけの時間を確保する「覚悟」があるかどうかです。
 
改めて、指導要領の大量の学習内容が大きな壁になります。しかも、教員の中には、この大量の学習指導要領を教え、学力をつけることこそが「自分たちの使命」であるという強固な信念があります。コロナ休校後に、日本全国の学校が遅れた学習を取り戻すために土曜授業、7時間目、夏休みの短縮を敢行した様子を見れば、大量の学習内容を「削る」「減らす」ことが容易ではないことは想像に難くありません。
 
学習指導要領の内容を減らせない要因の一つに義務教育の出口にある高校入試があります。しかし、私はここを機軸にして地殻変動が起こるのではないかとも予想しています。
今後、入試で必要な力と社会に出て必要な力はどんどん乖離していきます。しかし、入試は客観性が前提になる以上、知識・技能から抜け出ようがありません(私学の一部で活用力を測定しようという試みもありますが公立では反発が大きいことは昨年の大学入試改革が失敗した経緯を見れば明らかです)。知識・技能はタブレットによる反復学習で、時間と根性さえあれば鍛えられます。「Aさんは偏差値の高い高校に行ったけど、本当に社会で力を発揮できそうなのは、偏差値の低い学校に行ったBさんだ」というようなミスマッチが当たり前になると、受験は「通過儀礼」の一つになります。
ここで小中学校は、現行通り入試を見据えた指導を行うのか、活用力にシフトしていくのかという選択が求められます。私の予想では、「学校では活用力への移行」「家庭学習で知識・技能の定着(タブレットの機能を使って)」という棲み分けが進みます。知識・技能の定着が学校から切り分けられると、その浮いた部分を「対話」に振り分けられます。多様性を認めることによって生じる学校生活の課題解決は、活用力そのものです。学校教育には標準授業時数が設定されていますが、各教科の時数を1割ほど減らして、全て「特別活動」に投入すれば、高学年と中学校で年間140時間の対話の時間が確保できます。これはカリキュラム編成権をもつ校長の判断で可能です(行政はいい顔をしないと思いますが)。概ね週3〜4時間、リアルな学校生活の課題解決に時間を割けば、学校の中での多様性を保障できるでしょう。ただし、子どもの主体性からは程遠い従来型の学校行事は全て止めるという決断も必要です。
 
さらに、もし、本気で学校に多様性を導入するというのであれば、学習する内容を子どもたちが選べるようにする「選択制」を導入するという方法があります。
実は、この制度はすでに認められていると言っても過言ではありません。2016年に「不登校は問題行動ではない」という見解を文部科学省が出した時点で、子どもには学校に行かない選択は公に認められています。また、リモートでの学習も出席要件になっている状況を鑑みれば、すでに、何を勉強するかは子どもたちが選べる時代に足を踏み入れつつあります。
そもそも多様性を認めようという段階で、子どもたちに学ぶ選択が与えられないということ自体が矛盾しています。
「算数は家でタブレットで勉強しますから授業は受けません」
「社会科は、大人になってから勉強します」
「体育のマットや鉄棒はやりますが、人と競うのは苦手なのでサッカーやドッジボールはしません」
「ピアノを習っているので音楽はやらなくても大丈夫です」
もしこのような子どもの提案があった場合、それを止めるだけの根拠は学校にはありません。
授業に出ない時間は、図書室や共有スペースで他の授業の邪魔にならないように過ごせばいいです。
「今日は学校で勉強しよう」「明日は雨だから家でリモートで勉強しよう」という選択も考えられます。今後、タブレットで使用できる様々な教育コンテンツが開発され、個々に合わせたタイミングで学べる環境が充実していくことで、一斉授業からの離脱が進みます。
おそらく多くの子は、最初はすべての教科を選択するでしょうが「蟻の一穴」で音を立てて崩壊するでしょう。これはこれまで教室を支配していた同調圧力からの決別という一大事です。
大混乱も予想されますが、子どもたちひとり一人が自立していけば、自由で過ごしやすい環境になるのではないかという期待もできます。
 
もちろんこのような改革への反発は並大抵のものではないでしょう。時間短縮と効率化の中で最大の成果を出すことに特化してきた日本人には受け入れがたいと思います。「わがままな人間ばかり育つのではないか」と猛反対する声が日本中から起こるでしょう。
「何も勉強しません」という子もいるでしょう。そこで親子の対話に十分な時間をかけるだけの体力がない保護者も少なくありません。集団で授業をエスケープして繁華街に繰り出す中学生がいるかもしれません。公務員を減らし続けてきた日本には、突発的に起こった多種多様な問題を解決できるだけの人員が足りていません(これはコロナで顕在化しました)。
誰より、この進化を邪魔するのはおそらく教員です。子どもたちに知識を詰め込むことで存在価値を示してきた立場が揺らぐと、その先にあるのは給与削減や解雇だからです。(今のところ公務員には制度上リストラはありませんが、企業で終身雇用が見直されていくとこの先はどうなるか分かりません。)
ただ、極度の制度疲労を起こし、補強、補強で「やっと立っている」状態の学校が、多様性を求める社会の圧力に耐え続けられるわけはないと思います。大転換への覚悟が必要ではないでしょうか。
 
最後に余談になりますが、大量の学習内容に一言。中央公論202010月号では、文部科学省の合田哲雄さん(科学技術・学術総括官)が、現行の学習指導要領について「カリキュラム・オーバーロード(過積載)」と表現し「開かれた場で議論する必要」があると述べました。合田さんは、現行学習指導要領が作成された当時の初等中等教育過程課長で、小学校に英語とプログラミングを入れた張本人です。当時、富山県職員組合では、パブリックコメントで、学習内容を減らさずに英語の35時間を付加することに反対のコメントを相当数送りました(確認はしていませんが数百送ったと思います)。議論のチャンスはあったのに「一意見」で納められました。その後、合田さんは、財務課長となりましたが、小学校の英語を英語専科で行うだけの人員加配をしませんでした。一課長の裁量でできる範囲は極めて小さいことは理解しますが、こういう矛盾が、多様性一つとっても現場の改革の足かせになっていることを、文部科学省は認識してほしいです。
 

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質

 

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

 

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を

 

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 

【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか 

 

【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜

 

【ポストコロナの学校改革⑨】学校は何を教えるところか

 

【ポストコロナの学校改革⑩】幸せをもたらす教育施策

 

【ポストコロナの学校改革11】部活動改革への提言

 

【ポストコロナの学校改革12】授業革命が起こる

 
 
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【ポストコロナの学校改革13】多様性と向き合う①

大きな駅に緑のトイレができて久しいです。車椅子の方も、赤ちゃんを抱えた方も使いやすい構造になっています。トランスジェンダーの方も安心して使えます(マツコが青と赤とどちらのトイレに入ればいいか悩まなくてよいという意味です)。私の住む富山県では、高校入試の願書に男性、女性を書き入れる欄がなくなりました。
多様性に適応しようと社会が動き始めています。
学校はどうでしょう。
 
「みんな違ってみんないい」
3年生の国語の教科書にある金子みすゞの「私と小鳥とすずと」にある一節です。
 
教員が子どもたちにこの言葉を引用して話をすることもよくあるようです。
その話の趣旨は、一人一人違うのだから、その違いを認め合うことが大切である。ということになるでしょう。
しかし一方で、教員は「服装はこう」「廊下を歩く時はこう」「授業中の姿勢はこう」とあらゆることを細かく型にあてはめようとします。
 
大人のこういう矛盾を、自分が子どものと時は「言っていることとやっていることが違う」と冷めた目で見ていたのに、大人になると、子どもたちを同じように説得しようとしているのは典型的な「先生あるある」「大人あるある」です。
 
まず、学校はなぜここまで画一性を求めてしまうのでしょう。
それはこれまでのブログでも繰り返し述べてきたように、限られた数の教員で、大量の学習内容をさまざまな個性をもった子どもたちに教え、かつ高校受験という義務教育の出口に備えるために、学力向上を成し遂げることが最大の使命になっているからです。そして、その使命を果たすためには、同調圧力や時には理不尽な校則を使いながら同じ型に当てはめていくことで、問題行動を抑制しなければいけないからです。
多くの先生が心の中で「どこか人間的でない」と気づいているのですが、この多忙な学校現場で使命を遂行するためにはそれ以外の選択は思い浮かびません。
 
ここ15年ほどで発達障害など特別支援に対する指導法は急速に発展しました。しかし現場は苦しいです。学校のベースが画一性を強く求めているため、個性の強い子も一定程度枠に納めたいという意識が払拭できないからです。「みんな違ってみんないい」にはなかなかなれません。
 
一方、社会はますます多様性を受け入れる方向に傾いています。
 
「障害者差別解消法」「インクルーシブ」「合理的配慮」「SOGI(性的マイノリティー)」「ダイバーシティ」「個別最適化」・・・
 
多様性を認める概念が急速に広まっています。コロナによって今までの常識が崩れたことも、意識改革を加速させるでしょう。学校内外からも、ブラック校則など画一性のデメリットを指摘する声が高まっています。
 
しかし学校の多忙は限界を超えています。もしこのままの状態で「多様性」を受け入れたと想像すると様々な混乱が予想されます。
 
とても乱暴な子がいたとして、これも多様性だと受け入れるのか。
授業中、「私は国語と算数しか勉強しません」と言って他の教科はマンガを読んでいる子をそれも多様性と受け入れるのか。
服装は何でもよいのか。学校にゲームを持ってきてもよいのか。廊下を走ってもよいのか。校則はなくてもよいのか。
規律を失った教室で学級崩壊が発生し、学習が進まなかったらどうするのか。
「クラスの困った子を何とかしてほしい」と保護者が苦情を言ってきたらどう対応するか。逆に、さまざまな個性に対して、なぜ認めないのかと迫られたらどうするか。
教員自身も多様であってよいのか。「勉強は教えられるが生徒指導はムリ」「部活なら全力でやる」という教員を認めるのか。認めないというのであれば、そもそも多様性を認めていないということになるのではないか。
 
やや極端な例で示しましたが、多様性を受け入れるということはそういうことだと思います。日本の教育は「慣性の法則」が強く、画一性から脱却する方向にはなかなか向かないでしょう。世の中が「多様性」に向かう中で、間違いなくその軋轢に苦しむことになると思います。
 
今後、問題になるだろうことを3点にまとめてみました。
 
(1)大量の学習内容と多様性の両立
(2)問題行動や不適応と多様性の境界
(3)教員の多様性
 
さて、私なりに、この(1)(2)(3)の3点に一通りの答えはもっています。それは次回以降にお示しします。私も多様性については勉強中で、ご意見をいただきながら考えを進化させていきたいと考えています。例えば、「多様性と画一性は対義語ではない」と言われたらまた一から考え直します。
おそらく「正解」はありません。大切なのは、いろいろな考えがあり、そこで対話をしながら「適正解」を求めていく過程にあるのだと思います。正解に凝り固まること自体が多様性でないからです。
 

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質

 

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

 

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を

 

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 

【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか 

 

【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜

 

【ポストコロナの学校改革⑨】学校は何を教えるところか

 

【ポストコロナの学校改革⑩】幸せをもたらす教育施策

 

【ポストコロナの学校改革11】部活動改革への提言

 

【ポストコロナの学校改革12】授業革命が起こる

 

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【ポストコロナの学校改革12】授業革命が起こる

 
ポストコロナの学校は授業が劇的に変わります。その変化は学校制度そのものを覆すほど強烈なものです。
それはタブレットのもつ2つの機能によるものです。それは「個別指導機能」「リモート対話機能」です。
6年生の算数の問題を使って説明してみます。
 
直径が6cm、高さが10cmの円柱形のボトルには何mLのシャンプーが入りますか。
 
3×3×3.14=28.26(底面積)
28.26×10=282.6(体積:cm3
1mL=1cm3
答え 282.6mL
 
円柱の体積の問題です。
体積の公式を活用し、単位変換を伴うため6年生にとってはそんなに簡単な問題ではありません。
一般的な授業では、子どもたちが一斉に問題を解き、誰かが発表して、答えを確認します。
間違えた子は、正解を写して、やり方を確認し、別の問題で改めてできるかどうかを確認します。次も間違えると、理解できていないということで個別の指導を受けたりします。
逆に早い子は、問題を解いてから他の子ができるまで待ち時間があります。それを埋めるために、分からない子に教える先生役になったりもします。
一斉授業は学びのスピードをある程度一定にする必要があります。それはまるで「40人41脚」のようです。早い子を遅くし、遅い子をがんばらせ、横並びにします。自分は走りたくなくても両側の子が動けば足を出さずにいられないことも、同調圧力に縛られた教室に似ています。
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さてこれに対して痛烈な事実を突きつけた事例があります。工藤勇一前校長の麹町中学校です。数学の授業にAI型タブレット教材「キュビナ」を導入しました。「キュビナ」はタブレットで問題を出し、生徒の間違いを分析し、遡って復習問題を出します。子どもたちは個別に先生がついているような(むしろ人間の先生より上手に指導してもらえる)状態で学習を進めていきます。同じ教室にいても、ペースは完全に一人一人違います。すると、年間140時間のカリキュラムを早い子は40時間、遅い子でも70時間程度で終わらせることができたと言います。
今まで、40人41脚で全員横並びにすすめていたものを、足を結ぶひもを外したら、遅い子も2倍早く走れるようになったというわけです。
これがタブレットが示す可能性の一つ。AIによる「個別指導機能」です。
言い換えれば一斉授業からの解放ですから、学校教育の歴史を変える大事件です。
これは特に知識・技能を高める分野で広範囲にわたって活躍しそうです。
 
これによって、先ほどの円柱の体積の問題などは2倍の速さで習得できようになるということです。
こうなると余った時間で、これまで課題になっていた「思考力」を高める学習に十分取り組むことが可能になります。例えば次のような問題は子どもたちの思考力を引き出すとされてきました。
 
直径が6cm、高さが10cmの円柱形のシャンプーボトルに入れる、シャンプーの詰め替えパックを買いにいきます。ボトルにできるだけたくさん入り、パックにシャンプーが余らないのは次のどれですか。
A 200ml
B 300ml
C 400ml
 

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282.6mL入る容器なので、Bだとあふれてしまい答えはAになります。若干の思考は必要になります。ただ、次に同様の問題を解く時は思考力というより、技能的な力で解決できます。
むしろ、このような問題が出た時に、「Bでも無理すればボトルに入るんじゃない」というような発想を引き出したいところです。
そこで、この問題を次のように変えるとどうでしょう。
 
直径が6cm、高さが10cmの円柱形のボトルのシャンプーを使い切ったため、詰め替え用のパックを買いにいきます。あなたはどれを買いますか。
A 200mL 500円
B 300mL 600円
C 400mL 700円
詰め替え用パックはビニールを切るとふたができません。
 
この問題には「正解」がありません。
自分なりに答えを出すだけでも思考力を使いますが、他の人と意見を交換し合うことで、考え方の幅が広がることが期待できます。
例えば教室の座席で4人のグループを作り話し合わせたらどんな会話が生まれるでしょう。
 
「私はAにする。B、Cは余るから」
「ぼくはBにする。お風呂で詰め替えて、余った分はすぐに使う。」
「Cにする。Cは一番お得。Aを2個買ったらCと同じ400mlだけど1000円になってしまうよ。」
「でも余った分はどうするの?どこかに置いておいたらダラダラ漏れてきたり、置いてあることを忘れてしまって結局ムダになるかもしれないよ。」
「余った分は別のケースに入れて『シャンプー』って書いて目につくところに置いておけばいいよ」
 
うまく行けばこのように、いろいろなやりとりが生まれることが期待できます。
さらに値段や容量を少し変えてみたり、シャンプーを醤油にして賞味期限の要素を入れたりすれば、子どもたちの思考は働き続けます。「先生ならどれを選ぶでしょう」などと問いかけると、「先生は忘れっぽいのでCはダメだ」「いや先生はケチなのでCに決まっている」などと性格の要素も入って楽しいかもしれません。
 
この子ども同士の意見のやりとりは、教室では座席位置を利用した数人のグループで向かい合ってすることがほとんどです。
しかし、もしこれをオンラインで行ったとすると劇的な変化が起こります
それぞれの子が自宅にいても、学校でも、県外でも国外でも一瞬にグループができます。Zoom等による遠隔会議を体験された方ならお分かりと思いますが、グループ替えも一瞬です。いろいろな考えに触れることで学びが生まれやすくなります。
今後AIがここに入れば、「同じ意見をもつ子ども同士で」「違う意見をもつ子がグループに入るように」「なかなか意見が言えない子が話しやすいグループに入るように」などさまざまな配慮も可能になります。
これがタブレットで生まれる「リモート対話機能」です。

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しかもこのような授業は40人以上でも可能です。いやむしろ人数が多ければ多いほど多様なマッチングが可能になり、子どもから力を引き出す可能性が上がります。

タブレットを介すれば、言葉だけでなく文字でやりとりしたり、音声を文字にして表したりすることも可能なので、視覚や聴覚に障害をもった子との交流も垣根が低くなります。
 
「個別指導機能」で生み出した時間で「リモート対話機能」を使って思考力を育む。これは、これからの時代に求められる付加価値を生み出す力を育むことにかなり寄与しそうです。
 しかし、同時にこれは、子どもたちが学校に行く必要性を薄めていく可能性も秘めています。そもそも学校は、富国強兵のために、地域の子どもたちを一か所に集めて勉強を教えるという制度です。制度そのものに無理があります。無理があるために、様々な問題が生じ、時にはいじめのように命にかかわる問題まで発生します。集まらなくても学べるのであれば、それもよいはずです。このように言うと、
「いや、学校には学校でしか育てられない力があるはずだ」
と誰もが思うと思います。
それは何でしょう?
今、私は学校で対面でしか学べないものを次々に思い浮かべているのですが、どれも、次の瞬間には消去されていきます。
むしろ、現在のように競争や同調圧力、ブラック校則などで子どもたちを統制しなければいけない学校では、失うものの方が多いのではないかとさえ思います。
 
おそらく今後、学校不要論教員不要論が出てきます。AIの方が教えるのがうまくて、対話はリモートでできるのであれば、優れた塾の方が子どもの力を上手に引き出す可能性があるからです。社会性はボランティア活動や地域スポーツなどのリアルな社会参加で育めるでしょう。学校で何から何まで揃えて与えるより、子どもたちが自分で選んで参加する方が健全だと思います。そうなると学校でしかできないものとは何か。それこそ、給食や部活動やトラブルの仲裁や思い出づくりしか残らないのであれば、教員につける予算は半分でいいと言われるでしょう。
教員こそ、自らの付加価値を生み出さなければいけません。
私は、そのためのキーワードになるのが、「幸せ」という最上位目標だと思います。今の学校は必ずしも「幸せな社会の構築」に向かっているとは言えないからです。今こそ、学校の役割を再構築していく時ではないでしょうか。
(シャンプーの導入問題から、ずいぶん飛躍した着地になりました。皆さんのご意見をお聞かせいただければ嬉しいです。)
 

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

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【ポストコロナの学校改革⑩】幸せをもたらす教育施策

 

【ポストコロナの学校改革11】部活動改革への提言

【ポストコロナの学校改革11】部活動改革への提言

私の所属する富山県職員組合では、去る10月に教職員対象のWEBアンケートを行いました。(1015人から回答)

9月の時間外勤務時間について

【小学校】45時間未満•••39%(昨年12%)、80時間以上•••12%(昨年41%)

【中学校】45時間未満•••24%(昨年10%)、80時間以上•••42%(昨年55%)

 

このように昨年度より改善が見られました。その理由として、

◆コロナによって行事や研修が削減され、業務が減ったこと

◆4月から時間外勤務時間の上限が月45時間以内、年間360時間以内とするよう自治体の規則に位置づけられ、とりくみが始まったこと

が考えられます。ただ、中学校の時間外勤務時間は、なかなか改善がすすみません。理由は部活動であることは明らかです。

例えば、小学校では半数が「土日の業務はない」と答えているのに対して、中学校では「土日の業務はない」が15%に止まります。ポストコロナの学校を考える時に、中学校の教員の長時間労働の原因になっている部活動を改革していくことは避けては通れません。

 

そもそも、部活動はどうしてここまで肥大化してしまったのでしょう。

改めて部活動の建て付けを紐解くと、学習指導要領の中に次の2文があるのみです。

 

“生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際、地域や学校の実態に応じ、地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。”

 

「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」ということは、そもそもは「野球やりたい人、集まれー」という設計のはずです。

現在の部活動は、すべての運用システムを大人が作り、「自主性、自発性」の微塵もありません。

その背景には

・地域や国の競技力を上げたい競技団体

・手間やお金をかけずにスポーツ・文化振興をしたい地域

・子どもたちを長時間、がんばる環境においておきたい保護者

・子どもたちとのつながりを授業以外でももち、問題行動を抑制したい教員

・スポーツや文化活動で自己実現を成し遂げたい子ども

・指導者として自己実現を成し遂げたい教員

などなど、あらゆる思惑があり、まさにWinーWinーWinーWinーWinーWinのような関係で運用を拡大させていきました。しかし、今となると本当にWinーWinだったのか疑わしい部分も多々あります。

教員には時間外勤務手当を支払わないと定めた通称「給特法」という法律があります。(もしこの法律がなければ40代で年収1000万円を超える中学校教員が多発したはずです。)

勤務時間外は無給(休日の若干の手当のみ)で、長時間労働を余儀なくされ、精神疾患や心疾患、脳疾患で命を落とした教員も1人や2人ではありません。

また子どもたちも、すべての子が部活動をやりたいわけではなく、「二極化」しているのが実態のようです。部活動の強制加入はやめてほしいとの声もネット署名に上がっています。

 

そのような中、去る9月1日に、文部科学省スポーツ庁文化庁から「学校の働き方改革を踏まえた部活動改革について」という通知が発出されました。

趣旨は次の通りです。

◆部活動は必ずしも教師が担う必要のない業務であることを踏まえ、部活動改革の第一歩として、休日に教科指導を行わないことと同様に、休日に教師が部活動の指導に携わる必要がない環境を構築

◆部活動の指導を希望する教師は、引き続き休日に指導を行うことができる仕組みを構築

◆生徒の活動機会を確保するため、休日における地域のスポーツ・文化活動を実施できる環境を整備

一言で言えば、休日の部活動の地域移行です。

 

先の富山県教組のWEBアンケートでは、この地域移行についても質問しました。

 

『現在、2023年度から休日の部活動を外部に委託する方針が文部科学省から出されていますが、賛成・反対のどちらですか。』

○賛成•••59.5%

○どちらかと言えば賛成•••30.4%

○どちらかと言えば反対•••7.6%

○反対•••2.5%

このように賛成派が90%にのぼるという結果になりました。

 

『休日の部活動の指導者を教員と兼務でやってほしいという依頼があった時、あなたの考えはどうですか。』

○競技経験・指導経験のない部活動でもやる•••14.8%

○競技経験・指導経験のある部活動ならやる•••32.2%

○やらない•••49.6%

このように、「やる」派は47%、「やらない」派が50%という結果になりました。

半数の教員が「やる」というのであれば、地域の指導者と合わせて一定程度の指導者の確保は可能のように思えます。

 一刻も早い移行が望まれますが、来年度から試験的に運用され、本格的に実施されるのが2023年からです。2023年から「準備ができたところから始まる」という話であり、準備が進んでいなければいつまでも現状のままです。

いつになるか分からない外部移行をただ待っているその前に、できることがあると私は考えます。

それが次の3つです。

 

◆平日の部活動は教員の勤務時間内で行う

◆短い時間の中でどのように練習するかを子どもたちが考えて決める

◆それ以上にやりたい場合は子どもたちが保護者や関係団体と交渉して環境を作ってもらう

 

(突飛に思えるかもしれませんが、現行の制度に従って導き出した結果です。)

前述のように部活動には、「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」という大前提があります。

またそれを指導する教員には、2020年4月から、超過勤務時間を月45時間、年間360時間以内にするよう自治体の規則に位置づけられました。

一方、スポーツ庁文化庁によるいわゆる「部活動ガイドライン」には、平日の練習を2時間程度、休日の練習を3時間程度、週に2回以上の(土日も含めた)休養日を設定するよう示されています。

平日2時間×週4日+休日3時間×週1日=11時間 これが4週で44時間

部活動だけで、月45時間以内という教員の超過勤務の上限はいっぱいになってしまいます。ただ、部活動ガイドラインの月44時間は、教員と子どもたちの健康を守るための「最高値」ですから、それ以下の運用になっても問題はありません。

これらの制度を総合的に見れば、教員の勤務時間終了以降も部活動を行うことの方が無理があると思います。

 

ちなみに、先の富山県教組のアンケートでは、この点についても質問しています。

 

『教員の勤務時間の上限を遵守するために、当面の部活動運営をどのようにすればよいと思いますか(複数回答)』

○平日の部活動は教員の勤務時間内で行う•••59.1%

○すべての部を複数顧問にできる数まで部活動数を減らす•••52.3%

○土日の練習や大会への参加を大幅に減らす•••47.2%

○週2回の休養日をさらに拡大する•••37.4%

○部活動をしながら上限を遵守することは無理なので現状維持•••14.5%

 

複数回答であったため、あまり差の出ない結果になりましたが、最も多かったのは、「平日の部活動は教員の勤務時間内で行う」であり、中学校現場の意識とも乖離はしていないことが伺えます。

 

6時限目の授業が終わって、教員の勤務時間終了までに、生み出せる時間は1日50分程度。ちょうど中学校の授業1コマと同じ時間です。平日週4コマは、国語・数学・英語と同じコマ数になります。土日もやるのであれば国・算・英を上回る時間数です。

そして、その50分をどのように練習するかを「子どもたちが考えて組み立てていくこと」が、本来の「自主的・自発的」なあり方であり、これからの社会を生きていくために強調されなければいけない部分だと思います。教員はそれを支えるのが役割ですので、競技経験は必要ありません。そもそも、コーチではなく顧問=「相談を受けて意見を述べる役割の人」です。今や県外の専門の指導者からリモートで指導を受けることも可能な時代です。

子どもたちが「もっとやりたい」「専門的な指導を受けたい」と言った時に、そこで大人が用意してしまうのではなく、子どもたちが保護者と話し合ったり、指導者を探したり、競技団体に相談したりして、自分たちで環境を作っていくことが、子どもたちの主体性を育みます。他校との練習試合の折衝、大会参加の登録など、中学生であればできることは多々あると思います。また、保護者・地域の当事者意識も生まれ、学校に一極集中する「日本型学校教育」の弊害を緩和することができます。また、そこで部活動をしたい教員が指導者として、「兼業」の形で参加することも制度として可能にしていけばよいです。

子どもたちが主体となって部活動をする場合、まず予想されるのは、やる気が高い子とそうでない子の温度差によるトラブルです。そういう意見の違いを対話で折り合いをつけていく力を今の子どもたちはほぼもっていません。小学校の時から、何か人間関係のトラブルが発生しても大人が仲介して解決に導いてしまうため、解決スキルをもちえないのです。

このような力をつける時は、時間が必要です。子どもたちが帰宅後に1人1台端末を使ってWEB会議を行うような姿を私は期待します。

コロナによる長期休校の中で子どもたちに自ら学ぶ力が育っていないことが明らかになりました。部活動もその例外ではありません。与えて与えて与えて与える教育から大人側がまず、脱皮しなければいけないと思います。(そういう意味では、文部科学省の「休日の部活動の地域移行」も与える教育の延長線上に思えます。)

 

先の県教組のWEBアンケートには、部活動の時間がどんどん少なくなっていくことに対して、やりづらさを感じるという意見もありました。例えば、吹奏楽は、1日50分ではコンクールで演奏できる状態になるのは困難でしょう。議論が必要だと思います。

 

今回も強く自論を展開しましたが、もちろんこれが正解とは思っていませんので、お読みにいただいた方のご意見を頂ければ幸いです。

 

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質

 

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

 

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を

 

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 

【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか 

 

【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜

 

【ポストコロナの学校改革⑨】学校は何を教えるところか

 

【ポストコロナの学校改革⑩】幸せをもたらす教育施策

 

 

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【ポストコロナの学校改革⑩】幸せをもたらす教育施策

前回、学習指導要領をはじめとする制度が「誰もが幸せになる」という上位目標に従って建て付けられていることを述べました。
しかし実際には今の日本がそうなっているかというと疑問です。その原因を今回は教育施策の視点からお話したいと思います。
 
「学校教育」は、人類の歴史の中では、かなり新しい制度です。学制発布から約150年。人類の歴史の中で文明が生まれてから1万年として、まばたきをするような短い制度です。
それまで家庭の労働力であった子どもたちを地域の一か所に無理やり集めて勉強を教えるというやり方は、今では当たり前ですが、かなり乱暴な制度です。この背景にあったものは「富国強兵」。国力を上げるために作った制度です。
その後、太平洋戦争の反省を経て、教育も大きな見直しが図られました。
基本的人権の尊重・国民主権・平和主義を謳う日本国憲法という上位目標の下に、教育基本法学校教育法学習指導要領が制定されています。ですから「表向きは」国民一人ひとりの幸せをゴールに制定されているのですが、国力の強化を求める指導者の欲求は今も払拭できずにいます。
 
もしあなたが国の指導者だとして、「国力を上げたい」と願うなら何をするでしょう。
私なら子どもたちを無理やりにでも勉強させるシステムを作ります。また、全員優秀でなくてもいいので国を牽引するエリートを育成します。
これを成し遂げるためには、競争原理を導入することと、カリキュラムを高度にすることが有効です。
もっと具体的に言えば、義務教育の最後に高校入試というゴールを設定し、学習指導要領を高度化させ出題内容の難易度を上げれば、一部の優秀な人材の育成が自動的に達成できます。さらに小学校1年生から競争を意識できるように、テストで点数化し、通知表で序列化します。
これは戦後の高度成長期の日本の社会の要求に見事に合致しました。エリートがシステムを作り、その他の均質な労働者がひたすら生産するという構図です。
結果的に「一億総中流時代」が訪れ日本は戦後の困窮から脱しました。
この成功体験によって、学校教育が暗黙のうちに高校受験を通過点とする「学力向上機関」として機能するようになりました。
 
前回、私は学習指導要領を肯定的に論じましたが、実際には子どもの実態には合わない部分が多々あります。
例えば小学校1年生で時計の読み方を教えます。数をやっと読めるようになった子に「1」の目盛りを「5」と読ませるのは無茶です。
小学校2年生では、「11時35分から12時15分までの時間」を求めさらられます。大人の私でも指を使いたくなる計算です。
小学校3年生では社会科で地図を学びます。背の低い子どもに「上から目線」は概念として備わっていません。
小学校4年生では理科に「星」の学習があります。授業は昼間に行うのにです。
小学校5年生では算数で割合を学びます。「45dlを1とすると」などと言われます。私は子どもの時は「45は1ではない」とまったくその意味が理解できませんでした。
小学校6年生では社会で歴史を学びます。学習指導要領では覚えることなど求められていないのに、学校ではテストで覚えることを求められるため、記憶が苦手な私には苦痛でした。
 
恐ろしいのは、積み重ねの必要な算数などでは、一度取りこぼすと、再びみんなと同じ内容を学びすすめるのは不可能と言えるほどペースが早いことです。ですから教員は必死で子どもたちに勉強を教えます。そうなるとますます国の指導者の思う壺です。
そこでもしかしたら、教育が歪められていることに気づいた教員が、子どもたちを受験戦争から解放しようと教育改革を足元から展開するかもしれません。私が国の指導者なら、教員には大量の仕事を与えて、勉強したり、反対運動を起こしたりしないようにするでしょう。実際、教員はあまりの多忙の中で、目の前のことをただただこなす思考停止状態に陥っていないでしょうか。
 
学習指導要領は表向きは日常生活を豊かに送る人間の育成を掲げていますが、高校受験評価(テスト、通知表)内容の高度化教員の思考停止という「オセロの角」を押さえられ、その理念は骨抜きにされました。
 
そして今、この昭和の国力強化システムは平成の30年間アップデートされることなく、いよいよ重大な危機が訪れています。
それがこれまでにこのブログで述べてきたように、「生きる力」「活用力」をなかなか伸ばしきれないこと、学力の格差が貧困の格差につながり負の連鎖になっていること、そもそも「幸福度」が上がっていないことなどに表れています。
皮肉なのが活用力の低迷です。エリートを育成するために学習内容を大量に詰め込んだために「考える」時間を奪い思考力が育ちません。これからの日本にイノベーションを起こす、思考力、創造力のあるエリートが育たないのです。
「大量の記憶→受験→大量の忘却」という無駄の多い学習を続けなければいけない理由は、入試において、思考力を客観的に測る出題が極めて難しいからです。そのボトルネックを突破できないために、教育を「知識」から「思考力」にシフトできないというジレンマです。
昨年、大学入学共通テストを記述式にするなどの大改革を試みましたが、反発が大きく頓挫しました。戦後の教育制度改革から75年間、全国民が全力で一直線に走ってきた道を曲げようとしても、慣性の法則が許しません。
私が危惧するのは「幸福度」です。こうやってできた今の日本が、一度足を滑らせると這い上がれない「すべり台社会」になっていることと、それを肯定する「自己責任論」が支配し、息苦しい社会になっていることです。教員がそんな社会をつくる片棒を担いでいるのではないかと懸念します。
 
この私の心配をある意味証明しているのが、世界で最も幸せな国と評されるデンマークの経済政策、教育施策です。
※以下の内容は公益社団法人富山県地方自治研究センターの機関紙「自治研とやま」No.114(2020年10月号)「富山県地方自治研究センター講演会『なぜデンマークは世界で最も幸せな国なのか』(デンマーク大使上席政治経済担当官 寺田和弘氏)」より引用させていただきます。
 
デンマークの人口は580万人
GDPは一人当たり日本の約1.5倍
・おもちゃ(レゴブロック)、風力発電機(洋上風力発電)、医薬品(インスリン)などで世界トップ
・国が企業の活動をやりやすくしている(企業の設立はオンラインで3分で可)
・企業からの税収で福祉や教育も充実
・世界人材ランキングはデンマーク1位、日本35位
・上級管理職の能力はデンマーク8位、日本55位
・時間当たりの労働生産性デンマーク5位(72.2ドル)、日本20位(47.5ドル)
・子ども関連施策の政府支出額:日本14,392円、デンマーク95,454円
・働き方が効率的(1から100までやることがあったら、利益が上がる1から30くらいに集中する)
・夏休みは1か月(もちろん大人の話)
・医療、介護は無料(税は高く、消費税は25%)
最低賃金は時給1,900円
・企業は労働者の解雇が自由にできる
・失業した人には手当だけでなく、無料で職業訓練の機会を与える(一生で平均6回くらい転職)
 
このようにデンマークは、経済政策で企業を活性化し、福祉を充実させています。
弱者への支援に支出を嫌がる「すべり台社会」の日本とは真逆です。
 
次にデンマークの教育についてです。寺田さんは特徴として5つを挙げています。
1.大学まで学費は無料
2.複線型学校制度(小→中→高→大の1本道ではなく、高校と職業訓練などの伏線があり選択できる)
3.義務教育の8年間テストがない
4.18歳以降は、学生全員に月10万円の給付金
5.成人教育、職業訓練が無料で受けられる
 
教育の完全無償化や学生への給付金によって、家庭の収入の格差が学力の格差につながる負の連鎖を断ち切ることができます。
3の「テストがない」については文中から引用させていただきます。
 
「義務教育の8年生になるまで、日本でいうと中2になるまでテストはありません。9割以上の子どもたちは、テストをやったところでやる気をなくす、自尊心を傷つけられる、あまりいいことがありません。テストをやってうれしいのは、多分上位5%ぐらいの子だけで、あまり若いときから数字でランキングを見せるということをデンマークではやりません。もちろん習熟をどれくらいしているかというのは、先生が小1の頃からずっと同じ先生についているので、それは把握されているし、高学年になればちょっとは試験もありますが、日本のように中間試験、期末試験が学期ごとに行われるということはありません。」
デンマークにないのが、偏差値、受験競争、塾です。浪人というのもあまりないです。それから『前にならえ』も聞いたことがないです。逆に、デンマークでよく見聞きするのは、質問、自主性、自尊心。テストがないというのも自尊心を傷つけないためです。社会性は日本でも多分重視されていると思うのですが、私の印象だと、日本ではどちらかというと、全体の協調性、みんなで一緒に合わせましょうということで、ある意味、個性を無視した強制的な雰囲気がどうしてもあります。デンマークの場合は、違いは認めた上で、でもどうやってその中でみんなでうまく方向性を合意、見つけていこうか、ということが社会性という言葉の意味です。」
私は、日本国憲法教育基本法、学校教育法が目指す教育を具現化すると、本当はこのような形になるはずだと思うのです。
 
もう一つ、部活動についても引用します。
 
「教育で日本にあってデンマークにないものは、例えば制服、それから部活動です。デンマークで子どもたちがスポーツをやりたいと思ったときに、地域にあるサッカークラブなどに参加するようになっています。そういう団体は公的に支援されているので、学校の先生の負担にならないように、学校教育と切り離された形になっています。地域の中で活動するので、子どもたちだけではなくて大人たち、いろんな人たちが一緒に参加する、そういう活動になっています。」
 
文中にはありませんでしたが、おそらく家庭での教育も、子どもの自尊心や自主性を大切にし、保護者が子どもの成長を積極的に支援するものになっていることでしょう。子どもを育てる機能が社会の中に分散してあり、多くの目でで子どもたちを育てる形になっています。一極集中の「日本型学校教育」とは真逆です。
 
以上のように日本とデンマークではおそらく目指すゴールは同じ「幸せ」でありながら、結果として大きな差が開いてしまっています。そして、それが教育施策とも強い結びつきがあることも間違いないと思います。
日本の教育をデンマークに近づけたいと思うのは、私だけでしょうか。そういう私も、日本の教育を変えるよりも、デンマークに移住した方が早いのではないかとさえ思ってしまうのですが・・・。
(次回は、それでも日本の教育を改善したい私の提言を述べる予定です。)
 

 

【ポストコロナの学校改革①】学校制度のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革②】平成30年間の学校教育の変質

 

【ポストコロナの学校改革③】学校が抱えた保護者の監督責任

 

【ポストコロナの学校改革④】いじめを防げない学校のボトルネック

 

【ポストコロナの学校改革⑤】学校の働き方改革と子どもの学びの両立を

 

【ポストコロナの学校改革⑥】未来に生きる力を育てる

 

【ポストコロナの学校改革⑦】「自ら学ぶ子ども」をどうやって育てるのか 

 

【ポストコロナの学校改革⑧】脱「日本型学校教育」〜教員の本来業務に集中できる環境を〜

 

【ポストコロナの学校改革⑨】学校は何を教えるところか

 

【ポストコロナの学校改革⑩】幸せをもたらす教育施策

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