学校の働き方改革「10の提言と50の具体策」

持続可能な学校をつくるための具体的な提案

【コラム6】春名風花さん「いじめる側こそ学校に来ないで」から考えるいじめ対策の難しさ

春名風花さんの「いじめる側こそ学校に来ないで」という発言が拡散したのを受け、内田良さんが、「出席停止」制度の問題点を指摘しています。

Yahoo!ニュース『いじめ加害者の出席停止ゼロ件 夏休み明け「学校に行かなくていい」を考え直す』
https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20190831-00140620/

内田良さんは、いじめによる不登校が433.0件あるのに比べて、いじめによる出席停止が1.7件と極端に少ないことから、いじめ被害者の教育を受ける権利が侵害されている点を問題視しておられます。

一方、春名風花さんのツイートに対して「排除するな」「処罰するな」という批判も見られます。

非常に考えされられる内容でした。ちょうど、私の現在の関心が、「子どもたちの問題行動をいかに未然に防ぐか」という点にありますので、第三者的(とはいえ、学校内部の事情もよく知る)立場から、この問題について述べたいと思います。

 

アメリカの「ゼロトレランス
まず、本題からはやや離れますが、参考になる事例としてアメリカの問題行動対応について触れます。
幼少時から日米間を行き来しながら生活しておられる織井弥生さんのコラム「子どもの可能性を引き出す アメリカ最新教育事情」(2009〜2014)が学研のウエブサイトで紹介されています。この中でアメリカの学校における問題行動への対応が紹介されています。


『小学校低学年では、教師の指示に従わなかった子どもは、教室の隅に置かれた「タイムアウトの椅子」に座らされ、教師が再び席に戻ることを許可するまで、授業に参加することはできません。』
キンダーガーテン(日本の幼稚園年長に相当)では、3回注意されるまでは許容範囲ですが、それを越えると保護者に連絡が来るという決まりがあります。小1では、教師から注意をされる許容範囲が1回のみと、俄然厳しくなります。2回目の注意を受けた時点で、保護者に「今日、お子さんは○○の言動により、注意を2回受けたことを報告します。家庭でよくお子さんと話し合ってください」という内容のメモが発行され、保護者はその報告を確かに受けた旨のサインをし、翌日、教師に提出します。小学校中学年以降では、学校に居残りを言い渡され、説教されたり、反省文を書かされたりすることも珍しくありません。同様の問題が何回か続く場合は、保護者と教師との間で話し合いが持たれます。保護者は、問題となる行為について子どもと話し合い、家庭でしっかりと指導することを求められます。それでも解決しない場合は、校長と保護者とが面談をし、最悪の場合は退学を言い渡されます。』


https://hon.gakken.jp/reference/column/amerika/article/100414.html


このような指導を「ゼロトレランス」と言います。文部科学省のHPではゼロトレランス「学校規律の違反行為に対するペナルティーの適用を基準化し、これを厳格に適用することで学校規律の維持を図ろうとする考え方」と説明されています。この措置によって、アメリカは学級崩壊や校内暴力とは無縁のようです。

ただし問題もあります。二宮皓さんは「新版 世界の学校」(学事出版 2014)の中で、このような厳格な指導が「結果的に中退する生徒が増える状況に対する批判もある」としています。本書によれば、アメリカに限らず、様々な国でドロップアウトによる犯罪予備軍やひきこもりの増加が大きな問題になっています。ゼロトレランスは教育によってこそ救わなければいけない人を切り捨ててしまう性格をもちます。また二宮さんは、アメリカでも、いじめは大きな問題となっていると指摘しています。「12歳から18歳までの約28%がいじめを経験している(連邦政府による2009年の調査より)。」「いじめに対する法的措置は学区に委ねられており、他の問題行動と同様の処分(指導、停学、転学措置等)の対象となることが多いようである。」とあります。いじめに対してもゼロトレランスで対応しながらも、発生を抑えられない実態が伺えます。

アメリカで導入されているゼロトレランスは、日本でも一時期、文部科学省によって導入されようとしましたが、一般的にはなりませんでした。まだ未成熟な発達段階にある子どもに厳しい指導を徹底できる土壌がなかったのだと思います。部活動における厳しい指導の末に自殺してしまった高校生の例もあります。福井の中学校で厳しい指導の末に自死に至った「指導死」も記憶に新しいです。「ブラック校則」もゼロトレランスであり、今、強く見直しが求められています。
出席停止はゼロトレランスなのでしょうか。建前は子どもに対するペナルティではなく、「保護者が出席させることを禁じられる」という措置です。懲戒でないとは言え、結果的にペナルティと同様の対応となっており、ゼロトレランスであると私は考えます。

「空気」で指導する日本

アメリカの「ゼロトレランス」に対して、日本はどのように子どもたちを指導しているのでしょう。私たちはあまり意識していませんが、そこには「空気」=同調圧力の存在が色濃いです。「学校には行くものだ」「授業はちゃんと受けるものだ」「給食は残さず食べるものだ」という前提で「みんなやっているから」という同調圧力=「空気」を発生させることで、子どもたちを一定の方向に導きます。「空気」は学校に限らず日本のあらゆる場面で発生する「暗黙の行動規則」です。「空気」と言われると弱々しい印象を受けますが、日本全体を太平洋戦争に巻き込んだのも「空気」だと言われれば、その威力が分かっていただけると思います。

ここで言う「空気」は1977年に山本七平さんが著した「『空気』の研究」で述べられているもので、日本の社会全体の規律を支えていると言えます。日本に犯罪が少ないのも「空気」の力が大きいと解釈できます。

ただし、教員の作る「空気」の圧力には限界があります。いわゆる「空気を読めない子」は同調圧力を容易に突破します。子どもたち同士の荒れの「空気」が強大になり、教員の抑止力を上回った時には、「空気を読める子」も一緒になった学級崩壊、いじめなどが生じます。

では子どもたちを「いい子」にまとめる「空気」はどのように作ればよいでしょう。「空気」は同調圧力ですから、それを保つためには「みんなが同じ」状態を作らなければいけません。例えば、服装は下着の色まで同じ、髪の毛の色も束ねるゴムの色も同じ・・・。いわゆる「ブラック校則」は「空気」を保つためのゼロトレランスです。「ブラック校則」とまではいかないまでも、日本の教員は「みんな同じ」を求めることが多いです。自分の意思で何か違ったことをしようとすると「それはダメ」「これはダメ」と芽を摘み取ります。日本はこのような「小さなゼロトレランス」を重ねることで、校内暴力、授業妨害などの大きな問題行動の発生を抑制しようとしており、その面ではそれなりの効果があったと私は解釈しています。(もちろん失ったものも多いですが、その話は別のところでします。)

出席停止に踏み切れないわけ

「空気」で教育してきた学校が、ゼロトレランスのような厳罰に切り替われないことが出席停止がなかなか運用されない理由の一つだと思います。しかし、被害者救済のため出席停止を運用した方が効果的と判断した時は躊躇なく運用すればいいと私は思います。ただ、実際に運用するためにはさらにいくつもの壁があるのも事実です。ここでは3つ挙げます。

出席停止の難しさ(1)発達障害

教室の「空気」を打ち破るのは「空気を読めない子」です。例えば授業中に席を立つ、大声を出すような子の中には、ADHDアスペルガー症候群などの発達障害を抱える子が圧倒的です。単なる「お調子者」なら叱る指導も効果がある場合もあるかもしれませんが、発達障害を抱える子に厳しい指導を続けると「よくなりたいけどなれない」「自分はダメな人間だ」と強く認識し、強い反抗、暴力・暴言、対人恐怖、不登校、引きこもりなどの二次障害に至ります。
「いじめーいじめられ」の関係の中に発達障害が関連している可能性を示唆したのが司馬理英子さんの「のび太ジャイアン症候群」(主婦の友社 1997)です。いじめ、不登校、非行の根底に発達障害が潜んでいることが多いことを指摘し、学校教育、家庭教育に大きな提言をしました。

発達障害をもつ子は、友達とうまく合わせることができず、いじめられる側になることが多いですが、いじめる側にも、発達障害が「疑われる」事例も多々あります。「疑われる」と書いたのは、発達障害であるかの見極めは専門の医師の診断が必要だからです。発達障害との診断が出れば、服薬やその子にあった指導ができるのですが、教員から「あなたのお子さんは発達障害が疑われるので病院に行ってきてください」とはなかなか言えません。言ったとしても応じてくれる親は少数です。このように指導の決め手がないまま「被害者が我慢するしかない」状態が続いてしまうことがあります。確かにこれは問題です。

教員からは「特別な支援を必要とする子が増えて、対応が追いつかない」という声が多く聞かれます。たまにそういう子が欠席すると「今日は本当に楽だった」と本音が出ます。本当は授業の邪魔をしたり、いじめをしたりする子は出席停止になればどんなに楽か分かりません。しかし、数日登校を止められたからと言って、加害者がよくなるとは限りません。逆効果になるかもしれないです。いじめ被害者も、加害者が戻ってくる日を戦々恐々と待つことになるかもしれません。

出席停止の難しさ(2)家庭の問題

出席停止が運用しづらい理由の2つ目は家庭の問題です。加害者が、家庭でネグレクトや暴力などの虐待を受けている、経済的な理由から食事などが十分に与えられていない、片親で十分に面倒を見てもらえない・・・などのケースがあります。家に居場所がなく、学校でも重ねて指導を受けるようでは、子どもを追い詰めるだけで、改善は期待できません。出席停止で家に留めおくことは明らかに逆効果で、危険な場合すらあります。

私の聞いた事例では、「出席停止にしたが、親が学校に行かせる」というものもありました。

出席停止の難しさ(3)加害者の限定

いじめの対策として出席停止が運用しづらい3つ目の理由は加害者の限定です。暴力行為や授業妨害は加害者は明確ですが、いじめは隠れて危害を加えるために加害者が特定しづらいです。

例えばAさんが「Bさんにいじめられた」と言って不登校になったとします。しかし、Bさんは「Cさんに命令されてやった」と言い、Cさんは「僕は止めたけど、Bさんが自分でやった」と言えば、目撃者がない場合、加害者をBさんかCさんに限定することはほぼ不可能です。仮に、目撃者がいたとしても、本人が「絶対にしていません」と言えば、その子を加害者と限定することはできません。これは学校教育の限界です。

その他にも加害者が限定できない例として次のようなケースもあります。

【ケース1】クラスの中で一人だけ無視される。その子と接してはいけないという強い「空気」が発生しており、その中心人物が見えない場合です。いわば被害者以外の全員が加害者です。出席停止を当てはめると、被害者以外が出席停止になり、被害者が一人だけ教室で授業を受けるという状態になります。確かに学習権の保証にはなりますが、選択肢としてはありえません。

【ケース2】グループの中で、中心人物AがメンバーB、C、Dを一人ずつ「仲間はずれにするー許す」を繰り返すようなケースがあります。すると、ある段階でAが弾かれることがあります。Aが「いじめられた」と言って不登校になったとして、B、C、Dを出席停止にすると、B、C、Dは「今までAにいじめられていた。悪いのはA」「私だって学校を休みたかったけどがんばって来た。私も休んだらよかったの?」と言うでしょう。親も黙ってはいないでしょう。

その中で、学校は、警察、検察役、裁判官の役割を求められます。最悪のケースが「冤罪」です。犯人扱いをされた子に深い傷を負わせます。本人が「絶対にしていない」と言ったら(たとえ100%やっていても)加害者と限定できないのはそういう怖さがあるからです。本人の納得がない中で罰を加えても逆効果です。

本当の問題は何か?そして解決への道は?

いじめを抑制する方法としての「ゼロトレランス」にも「空気」にも問題点や弱みがあり、現状、学校ではいじめを防ぐことは極めて難しいです。

前述のように、私は被害者救済のために出席停止を運用した方が効果的と判断した時は躊躇なく運用すればいいと思います。もちろん、様々なリスクが発生します。出席停止にされた子が自ら命を落とす可能性もあるのです。それが冤罪だったらどうなるでしょう。そのリスクに耐えうるだけの対策が学校や教育委員会にはできないのが現状だと思います。「したくてもできない」ということは、学校の運営そのものに無理があるということではないでしょうか。

そもそも、教室の環境そのものがいじめの「温室」です。同学年の多数の子どもたちを長時間、狭い空間に閉じ込め、同一の内容を教えこむ環境が子どもに高いストレスを与えています。明治以来の「一斉授業」のシステムが時代に合っていませんし、教える内容がどんどん増えていることも強い逆風です。最大40人という1クラスの児童・生徒数も学習指導要領の大量の指導内容も、「子どもがいい子」で「教室が平和」である前提で定められたものです。トラブルが生じた時の危機管理は一応「チーム対応」が謳われていますが、チームの構成員がすでに超多忙で、そもそもの人員が足りていません

文部科学省のいじめ対策の一つが「道徳の教科化」です。しかし、「考え議論する」授業になり、「所見による評価」が入ったことで、今の状況がよい方向に変わるとは考えにくいです。むしろ教員の自由度を制限し、多忙化をすすめる弊害の方が大きいかもしれません。

また、文部科学省はいじめ対策としてスクールカウンセラーの全校配置」を行いましたが、「週1回4時間」のような掛け持ちです。次々と発生するいじめに対して、相談の順番待ちをしている子どもと教員がたくさんいます。千葉の虐待死の問題を受けて、政府は児童相談所の職員を増やす方針を打ち出しました。同じように、学校にももっと多くのスクールカウンセラーが必要です。しかし、そのための予算はなかなかつきませんし、ついたとしても、条件に合った人の確保は簡単ではないでしょう。教員すら講師不足で必要数に満たないのです。

子どもの問題行動にまったく抵抗力のないこれらの基本構造の改善を議論することがまず必要ですが、その改善を待っている間にも次々といじめは発生していきます。

八方塞がりの中で、もし活路があるとすれば、保護者や地域ボランティアなどの外部の力を借りることです。教員免許やカウンセラーの資格がある人が足りないなら、資格がない人に頼るしかないです。前回のブログでは、「いじめを発生させない」ために、教員以外の多くの大人の目を学校に入れることを提案しました。保護者、地域ボランティア、民生委員、行政職員などが交替で子どもたちの様子を「見守る」のです。決して「見張り」ではなく「見守り」としてです。(これは次回、【具体策】として提案します。)

学校ももっとSOSを出した方がよいです。そして、保護者や地域を「カスタマー(顧客)」から「パートナー」に引き入れることが、改善の第一歩になると思います。言い換えれば、道徳教育、出席停止など「子どもを変える」対策ではなく「大人を変える」、つまり保護者や地域、行政が主体的に動く対策が鍵になると思います。

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【コラム5】いじめ対策の盲点は「防止」ができていないこと

「いじめ防止対策推進法」の中に教員の懲戒処分を含めるかどうかが議論されています。

 

『【#しんどい君へ】揺れる「いじめ防止法」…放置した教職員を懲戒すべきなのか』(読売新聞オンライン)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190820-00010002-yomt-soci
 

私は、一連の議論を目にして、違和感を感じるのは、「いじめを未然に防ぐシステム」ができていない中で、事後対策を強化しても、傷つく子どもが発生することは防げないということです。「いじめ防止」と言いながら、「防止」になっていません


現在、いじめ対策にどのような予算がつけられているかというと、スクールカウンセラー(SC)、スクールソーシャルワーカー(SSW)などの配置です。これらの配置はとてもありがたいのですが、SC、SSWが登場する頃にはいじめは相当深刻化しています。
トラブルは、生じてから対応するとコストが大きくかかります。対応が遅れれば遅れるほど被害が拡大し、子どもは傷つき、解決までの時間は長く、教員も疲弊します。
大切なのは、まず生じないようにすることと、できるだけ小さいうちから対処することです。つまりSC、SSWに使う支出を、「いじめが発生しにくい環境をつくること」「いじめの芽をできるだけ小さいうちに摘み取ること」に回した方が、子どもも傷つかず、教員も疲弊せず、コストも少なくてすむということになります。


まず「いじめが発生しにくい環境をつくること」について説明します。
以前、荻上チキさんの講演を聞いた時に印象に残ったのが、「高校生に『いじめを増やす方法』を考えさせた」というものです。「何でも禁止にする」「宿題を増やす」「先生が怒ってばかりいる」「先生が見て見ぬふりをする」などの意見が出たそうです。一見いじめとはつながりにくくても子どもたちにストレスを与え、間接的にいじめを増やす原因になりかねないことを学校は数多くやっています。
「いじめ」が命にかかわる重大な事項であると本当に認識されているなら、学校環境の改善、とりわけ教員の業務削減と子どもへの指導内容の精選も課題にされるべきでしょう。その部分は手をつけずに事後対策だけを強化するのは「アクセルを目一杯踏みながら、ブレーキをかける」愚策です。道徳の教育の充実、頻繁ないじめ調査なども同様です。
肥大した学習指導要領、40人学級、一斉授業など、一人一人に目を行き届かせることが困難な制度が、いじめの温床となっているとするならば、文部科学省がいじめを増やしている」という自覚のもとで、施策を見直してほしいです。


次に「いじめの芽をできるだけ小さいうちに摘み取ること」について説明します。
現在は、いじめの発見は担任を中心とする教員の役割になっています。「いじめアンケート」をすればいいと考える人もいますが、学級の「空気」の中で正直に書けない子もいます。休み時間に一人で過ごしているのはいじめられている子の発するサインですが、その時には手遅れになっていることもあります。一人でいる姿を気づかれないように行動する子さえいます。隠されたいじめを早期に発見するには教員の「空間認知能力」が必要です。教室に入って、子どもたちの動きを全体的に把握しながら、「クスッと笑う」「ヒソヒソ話す」「目配せをする」などの微妙な動き、「隣の子と机を離す」「すれ違う時避ける」「触れたところを払う」「給食を受け取らない」など明らかな動きまで、いじめのサインを捉えなければいけません。
しかし、教員は常に複数のタスクを抱えています。
『算数の計算方法を教えながら、私語をする子に声がけをし、勉強が苦手な子にヒントを与えながらも、いじめのサインを捉えるアンテナを張り、何か引っかかったら優先順位を入れ替え、授業を中断して指導する。』
教員に求められているのはこういう能力です。私は同時のタスクが重なると視野が狭く=空間認知能力が低下します。それでも、痛い目に何度もあいながら、見逃してはいけないサインが分かるようになってきましたが、いじめをする子どもたちの狡猾さにはなかなか勝てませんでした。
現在、ベテランの大量退職に伴い、若手の教員が増えています。現在の50代の大量のベテランが学校を支えてきたこの20年の間に、教員のタスクは増加し高度化し続けました。次々とふりかかる難課題を、中堅ーベテランが長時間労働によって「やりとげる」ことで、予算も人も着きませんでした。20年前の若手と、今の若手では求められるレベルが違いすぎます。この現状で、いじめ発見を教員の役割にするのはあまりにも酷です。
今の学校には子どもたちを見守る多くの「目」が必要です。いじめ抑制・早期発見の策はこれに尽きます。本来なら、国が大きな予算をつけて教員を増やせばいいのですが、今、教員自身が足りないので、「職員室に席を作っても座る人がいない」状態です。また、教育にお金をかけようとしない国が動き出すのを待っていては、何年後になるか分かりません。
私は、地域の方がボランティアで子どもたちの登下校を見守る「見守り隊」と同じように、学校の中で子どもの様子を見守る「校内見守り隊」を作ることが解決策になると考えています。

これについては次回【具体策12】で詳細を述べますが、ここでは最小限の説明をします。構成員は、地域のボランティア、保護者、民生委員、警察官、消防士、市役所・町村役場の職員などが考えられます。教育の専門家でなくてもよいです。複数タスクで空間認知能力の低下した教員よりもアンテナの感度は期待できます。子どもたちへの指導は基本的にしません。「校内見守り隊」が「いじめは許さない!」というオーラを出して学校の中を回る「監視隊」になると子どもたちのストレスが増加しますので、基本、子どもたちと仲よく過ごす姿勢を想定します。発見したいじめのサインはSCに繋ぐのが妥当と思います。SCは基本的に校内の見回りを行なっていますから、そのサポート役と考えればよいでしょう。教員に繋いでもいいですが、多忙による対応の遅れや隠蔽が心配です。詳細は次回【具体策12】で。


最後に「いじめ防止対策推進法」への懲戒処分の導入についてですが、私はこうやって何でも法律で締めつけることによって、社会全体が息苦しくなっている現状を危惧しています。もしも、懲戒処分が導入されたら、教員は小さなトラブルも全て管理職に報告するようになるでしょう。報告した時点で、責任は管理職に移り、教員本人の懲戒処分はなくなります。後は、教員がいじめの経過を文書で管理職に報告し続けることで「学校は認識していた」という証拠が残ります。教員や学校による放置はなくなるでしょうが、教員が自分を守るための仕事が増えます。それよりも、多くの目で子どもたちを見守り、社会全体で子どもたちを育てる体制を作る方向に世の中が進んでほしいと思います。

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【具体策11】夏休みの宿題と作品応募のあり方を見直す

私の住む地域では、小学校の夏休みの宿題は、①ドリル、②作品応募、③日記、④自主学習などが一般的です。提出物として、「生活表」(日々の学習時間や1行日記の記録)やラジオ体操カードなどがあります。

たくさんの宿題を出す背景には、教員側に「1か月以上勉強をさせなかったら子どもたちの学力が低下してしまう」という不安、保護者側に「宿題がなかったら子どもたちはゲームばっかりしてしまう」という不安があり、これを同時に解消するWINーWINの関係があることは間違いありません。一方で、夏休みの終わりには、何で早く取り組まなかったのだろうという子どもの後悔、宿題をさせきれなかった親の怒り、そして大量に積まれた夏休みの宿題を処理しなければいけない教員の憂鬱が発生します。

また、宿題として定番になっている作品応募は、自由研究、絵画、読書感想文、作文、写真など、様々なものがあります。これには、教員側の「夏休みに何かよい課題を与えたい」という願いと、各種団体側の「子どものために何かしたい」「うちのイベントを子どもたちの作品で盛り上げたい」という願いが重なり、WINーWINの関係になっていると思われます。しかし、作品応募にかかる教員の負担が多大であることはあまり知られていません。

今、私の手元に、とある小学校の作品応募の一覧がありますが、全部で24種類(B4用紙に3ページ)の課題が紹介されています。それぞれの課題から自由に選んで子どもたちは作品をもってきますが、一つ一つの作品に作品票を貼ったり、出品作品を選考したり、出品者名簿を作ったり、梱包したり、発送したりする作業はすべて教員が行うことになります。例えば、30人のクラスの担任であれば、「1点か2点の出品」を宿題にすると30〜60程度の作品の処理をしなければいけません。これらの業務が、授業の準備に多大な弊害を与えていることは世間には知られていません。

実は文部科学省はこの問題を認識しており、柴山文部科学大臣は、今年1月29日に「学校における働き方改革に係る文部科学大臣メッセージ」を公表し、次のように述べています。

「例えば,学校は,多様な機関から依頼を受け,子供・家庭 向けの周知などを行っています。特に夏休みなど長期休業前は依頼が多く, 子供たちの成績処理で忙しい時期にも関わらず,学級ごとに配布物を仕分け,学級担任が一枚ずつ配っています。各機関からのそれぞれの依頼は小さいですが,これが積み重なることで負担が大きくなっています。」

「学校への子供・家庭向け周知等の依頼は厳に精選いただき,学校を経由しない方法(公共施設等での配布,インターネットや広報誌への掲載など)を活用いただくこと。」

「作文・絵画コンクール等について,学校単位での応募や学校による審査や取りまとめを要件としない,また,学校経由での子供への周知を求めないようにしていただくこと。」

(詳細は http://202.232.190.211/a_menu/shotou/hatarakikata/1419588.htm

しかし、残念なことに、このメッセージは作品応募を依頼する団体にまったく届いておらず、今年も例年どおりの応募が行われています。

本来、学校外の各種団体が子どもたちを対象に行うコンクールやコンテストは「社会教育」の分野であり、「学校教育」とは切り離される部分です。それが、「夏休みの宿題」というWIN-WIN(当時)の接点によって、強固に結びついてしまいました。かつては(今も)、作品の提出を強く迫る団体もあり、結果として抱えきれない量になりました。

私は柴山文科大臣がメッセージで示したとおり、学校の作品応募は「学校を経由しない方法」で行われるのがベストだと思います。学校が作品応募に追われて授業の準備に支障が出ている状態を早急に是正すべきです。ただ、各団体が学校に頼りきっている状態で「今さら」切り離しをすることは簡単ではないでしょう。ここで必要なのは「対話」ですが、数多の団体一つ一つと対話をすすめる余裕はありません。

富山県職員組合では、JA主催の「書道コンクール」について、主催団体と意見交換を行いました。(写真は私のフェイスブックのスクショです。)

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私たちのこのとりくみは始まったばかりですが、これ以外の数多の団体に対して「どこから手をつけていいのか」悩ましいところです。過去には対話をお願いしても門前払いされた経験もあり、簡単ではないと思っています。

学校独自でできる工夫もあると思います。単に出品数を減らすのであれば、宿題にせずに「募集の紹介」に留めるという方法があります。子どもたちの自主性も支えられます。出品数が減って困る団体もあるかもしれませんが、それは募集に魅力がないからであり、それを何とかするのはその団体の役割です。それを学校が手助けすると、社会の教育力が低下することも考えなければいけません。同様のことが家庭にも言えます。宿題もやみくもに出すのではなく、減らすことによって家庭に任せる部分も作っていかないと、ますます家庭の教育力が落ちてしまいます。大量の宿題で夏休みの子どもたちを学校が遠隔操作しようとするこれまでのあり方は見直される時期にきていると思います。

私が考える理想は、7月の下旬に新聞に各団体の作品応募が一覧になって紹介されることです。詳細はQRコードでサイトに移動できるようにすれば、スペースも少なくてすみます。参加賞を工夫すればたくさんの応募があるでしょう。新聞を開いて親子でどれに応募するか考える姿が期待できます。

さて、これをお読みの方で、ご自分のかかわる学校で「作品応募はしていない」「やっているけどこんなふうに改善した」という例がありましたらぜひお知らせください。また、夏休みの宿題の状況も教えていただけるとありがたいです。都会の方では、夏休みの宿題も減っているということも聞きます。そのような情報を学校に周知することが、学校の働き方改革をすすめる「追い風」「勇気」「推進力」になります。よろしくお願いいたします。

【コラム4】平成の教育を多忙にした犯人は

地元の新聞社から取材がありました。
「平成を振り返って、学校の多忙はどのように進んだのですか?」
私は平成元年に教員になっていますから、まさに多忙化の過程を歩んできました。
しかし、どこに多忙の根源があったかというのはなかなか見えないものです。まさに「茹でガエル」(熱湯にカエルを入れると飛び出すが、少しずつ加熱していくと飛び出さず死んでしまう)のようにジワジワと苦しめられてきたように思います。
多くの人は「給特法」を多忙の原因として取り上げるのではないかと思いますが、私は、平成19年の学校教育法改正による「学校評価」の義務化が致命的だったと思います。当時は、「また仕事が増えたか」くらいにしか思っていませんでしたが、今思えば深い部分で学校と保護者の意識を変質させました。

ちょうどその頃は、社会全体に「説明責任」を問う風潮が高まっていました。学校もその例にもれず、税金で運営した成果を公表すべきと学校教育法が改正がされ、学校教育法施行規則に
・学校の自己評価の実施・公表
・保護者など学校関係者による評価の実施・公表
・それらの評価結果の設置者への報告
を行うことが示されました。例えば、保護者向けのアンケートに「学校は子どもたちに分かりやすく勉強を教えていますか」、子ども向けのアンケートに「先生は子どもの相談にのってくれますか」などの質問をし、集計し、公表するというものです。
これによって、保護者は学校と共に子どもたちを育てる「パートナー」から「カスタマー(顧客)」に立場を変えていきました。「モンスターペアレント」が流行語になったのも同時期です。多くの保護者は「モンスターペアレントなんて許せない」「自分はモンスターペアレントにはならない」と言っていましたが、過剰な要求はしないまでも、「顧客意識」は確実に浸透しました。

これは、学校に限らず社会全体に広がった意識です。病院の掲示板には数十枚の「患者様の声」とそれに対する回答の紙が貼られました。「柿の種」の袋には「辛さには個人差があります。辛味が苦手な方やお子様は十分にご注意ください」と書かれています。
この流れの中で学校自身も「サービス業」に意識を変えました。管理職は「説明責任」の名の下で、保護者の要求に応えるための業務を次々と増やしました。
「もっと宿題を出してほしい」「もっと部活動をやってほしい」「朝早く登校させてほしい」という要求は、家庭での養育時間を短縮し、学校の長時間労働を助長しました。
「親の言うことは聞かないので、先生からもっと勉強するように言ってください」
「近所の子の自転車の乗り方が危ないのですが、学校で指導しないのですか」
「家に遊びに来た子が、勝手に冷蔵庫を開けて困ります」
ごく普通の保護者が悪気もなく当たり前に学校に相談をもちかけます。
そして、そのような要求があった時に、学校は(私もそうでしたが)「承知しました」とその要求に応えました。「それって学校の仕事か?」と多少の疑問をもちながらも、その方が、面倒なく、手っ取り早く問題解決ができるからです。「いや、それは学校ではなくてご家庭で指導してください」という説得は時間がかかるだけでなく、下手をすれば大きなクレームを発生させかねません。また、当時の管理職の中には、保護者の要求に先回りして様々なサービスを提供することで高い評価を受けた人も少なくありませんでした。単に仕事が増えただけでなく、クレーム対応、クレーム予防のような「疲弊する業務」が増えました。そして、学校が要求を受ければ受けるほど、保護者の教育力は低下し、ついには親同士のトラブルまで、学校が仲介しなければいけないほどです。
今、学校の働き方改革の風が吹いています。学校の窮状がマスコミで繰り返し伝えられ、学校の改革の必要性に保護者は理解を示しつつあります。しかし、このチャンスに、学校側が萎縮して削減や改善を口に出せなくなっています。度重なるクレーム対応が集団的な「トラウマ」になって、意見を言うことにブレーキをかけているように思えます。

もちろん、多忙の原因は他にもたくさんあります。「全国学力・学習状況調査による学力向上ブーム」「絶対評価の導入」「教員免許更新制度」「夏休みの承認研修の実質的な廃止」「教科と授業時数の増加」・・・しかし、「学校はサービス業」という意識の変化は仕事を際限なく増やす可能性があるという意味で致命的です。
「給特法」が昭和の教育が遺した大きな負の財産であるならば、「学校評価」は平成の教育が遺した大きな負の財産と言えるでしょう。恐ろしいのは、学校評価をやめたとしても、意識が元に戻ることはそう簡単ではないということです。

では、どうすればいいのでしょう?それはまた令和になってから【提言】【具体策】で示したいと思います。

 

《5月2日追記》ツイッター等でご意見をいただいています。教職員の方からはおおむねご賛同をいただいているのですが、保護者の方からは「的はずれ」「違和感を感じる」「顧客意識はない」とご意見をいただくことが多いです。確かに読み直すとあたかもすべての保護者の顧客意識が高まったような表記になっています。確かに、学校に様々な要求をしてこられるのは一部の方々ですし、私もすべての保護者の意識が変わったとは思っていませんので、ご了承ください。

《5月2日追記2》画像を変更しました。

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【具体策10】「自転車教室」は地域・保護者が行う

以前、東京の小学校の先生と話をしていて驚いたことがあります。(私は富山県の教員です。)
私が「うちの地域は小学校で自転車の交通安全教室ってやるんですよ」と言うと、その方は「それ東京でもやってますよ」と言われました。
詳しい話を聞くと、細部まで共通していました。
・小学校3年生を対象に
・グラウンドに道路に見立てたラインを引いてコースを作り
・警察も来て
・一旦停止、左右確認等の安全な走行の練習をする
・子どもたちは「自転車教室」を受けるまでは、自転車の路上走行は禁止。(保護者の同伴であればよい)
さらに、作ったコースに対して人数が多すぎグラウンドは大渋滞というところまで一致していました。
唯一違っていたのは、自転車に乗れない子が、うちの地区が1〜3%程度なのに対して、東京では30%くらいであるというところでした。

東京と富山でここまで共通ということは全国的に相当な数の学校で同様の行事が行われていることが予想されます。

ちなみにこれにかかる教師の労力は相当なものがあります。

・指導計画の作成
・警察と日程・指導内容の打ち合わせ

・自転車販売店(点検をしてもらう)との日程調整
・子どもたちに自転車を持って来させるための保護者への連絡(事前に親が持ってくる場合、当日子どもが持ってくる場合、当日雨の時の連絡方法等)
・自転車を置く場所の確保と並べ方の指導
・実施日のグラウンド確保とコース作成

さらに路上での練習を行う場合は
・路上コースの下見、コースの決定
・PTAへの協力依頼
・職員の役割分担(何時から何時まではA先生だけど、何時からはB先生などの調整が必要)
などの業務が発生します。警察とPTAの接待なども必要で、どこで待ってもらうか、誰がお茶を出すかなど、細部まで担当者を決め、当日に備えなければいけません。当日雨になろうものなら、警察、自転車屋、PTAとの日程調整もやり直しになります。

私の場合は、自転車教室のための事前練習までも行いました。なぜなら「ペダルを45度まで持ち上げ、踏んでスタートする」「ブレーキを握って止まる」というところからできていない子が多数いるからです。ふらつきがひどい子もいます。乗れない子の中には自分は乗れると思い込んでいる子もいます。多くの人がかかわる行事での混乱は避けたいです。
事前練習のためには数日、自転車を学校で預かることになります。夜、盗まれたら?という心配も出てきます。「今日、一旦持ち帰ります」という保護者の申し出にも対応しなければいけませんでした。

また保護者から「こんな行事があるとは知らず、自転車を慌てて買いに行った。気に入った商品がなかったが、仕方なく買った」と後から苦情が出たこともあります。

さて、この行事を「やればよい」のは理解できます。「子どものため」「命にかかわること」というのも分かります。しかし「やればよいこと」をすべてやっていたら学校はパンクします。どこかで線引きが必要です。

私の考えでは、自転車教室は学校がやるべきことではありません

理由は「学習指導要領にない」からです。これらの持ち込み行事を行うことで、学習指導要領で定められた正規の授業が食われてしまっている実態があるからです。
さらに、学校が抱えきれないリスクも背負っています。もし、この交通安全教室を終え、学校に「認定」された子が事故にあったら、そして保護者に「事故にあったのは学校がきちんと指導せずに認定させたからだ」と追及されたらどうするのでしょう?
本来は親や地域がやるべきことを学校が先回りしてやってしまうことによって親や地域の教育力が落ちることも問題です。

代案を示します。

《代案1》学校での自転車教室は行わず、保護者が責任をもって子どもへの指導を行う。警察から自転車の路上走行のルール、マナーについてのリーフレットを配布し、保護者がそれを元に子どもへの十分な指導を行う。

《代案2》PTAと警察が合同で、もしくは警察単独で、土日などに自転車教室を行い、それに親子で参加し「認定証」をもらうことで、路上走行許可の目安とする。

(個人的には、路上での自転車の使用については各自治体が条例等である程度の規制をした方がよいと思います。)

さて、自転車教室は一つの例でしかありません。学校はしなくてもよい多くのことをサービスとして行い、それによって生じる責任も抱え(それゆえ綿密な計画による実施が余儀なくされ)、地域の教育力を低下させ(それゆえ面倒なことはどんどん押しつけられ)ています。

昨今「学校は多忙で大変だ」ということがかつてないほど世間に周知されています。これを見直すのは「今」しかないと思います。学校の働き方改革の風が吹いているうちに、教育委員会や各学校の校長先生が、警察、PTAと懇談の場をもつことでしか見直しは始まりません。そして、もしもうまくいけば「警察が見直した」という事実が、「私の組織も見直すべきか?」という連鎖を呼びます。

もしも、すでに学校から切り離したという事例がありましたら、ぜひ、お知らせください。このような改革こそ、横に広げるべきです。

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【4コマまんが①】4月は気をつけて

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これは富山県職員組合の機関紙に掲載したマンガです。

読まれた方から「職員室で先生方みんなで『そうだよなー』って笑っていました」と感想をいただきました。

「でも、その後の職員会議で、マンガと同じことになっていました」と。

現実の学校はマンガより皮肉です。

【具体策9】子どもの登校時間の適正化を

教職員の勤務開始時刻は8時00分から8時15分くらいに設定されている学校が多いようですが、多くの子どもたちはその前に学校に到着している現状があります。8時前後を子どもたちの登校時間として設定している学校が多いようです。家を出る時間はさらにその前の7時台になります。

独立行政法人日本スポーツ振興センター災害共済給付の基準に関する規程」では、「通常の経路及び方法により通学する場合  通学するとき  登校中  下校中」は学校の管理下という判断がなされており、事故があった災害給付の対象となっています。勤務時間外に責任を負う状態が発生しているということになります。

この状態をどのように判断すればよいのでしょう?

2017年に行われた中央教育審議会で「登下校の見守りは自治体の業務」という結論が出ました。

つまり、登下校中の安全確保は「学校の管理下」であるが「教職員が見守る必要はなく、責任は自治体にある」という判断になると思います。(この場合の「学校の管理下」というのは、「学校=校長・教職員」ではなく、「学校=設置者」という見方が適切かと思います。)

では、子どもたちが7時50分に学校に到着して、教職員の勤務時間開始が8時10分であった場合、7時50分に〜8時10分の20分間の子どもの安全管理は誰が行い、トラブルがあった場合の責任は誰が取るのでしょうか?

このブログの【提言3】「グレー」な運用を適正化するでも申し上げたように、学校にはこのような管理上の「曖昧さ」が随所にあります。結果としてその全てが学校=教職員の負担になっているというのが現状です。

現状を整理すると、

①子どもを早く登校させたい保護者がいる(自分の出勤時間の都合等で)。子どもを早く登校させたい教職員がいる(部活動の指導等で)。

②早く登校させたい保護者・教員の要望を管理職が受け入れる。

③教員の勤務時間前の登校が常態化する。

④「子どもが登校しているのだから、教員は早く登校して当然」という指導が行われたり、自主的に「教室で子どもを待とう」という活動が推奨される。

という流れがあります。

これによって、勤務時間の延長というコストが発生し、子どもの安全管理のリスクも増加しています。

中には、教職員の勤務時間前に、学校に到着した子どもから校庭でランニングをさせるという学校もあります。もしある子どもが心臓発作で倒れたら、もしその日に限って職員の出勤が遅くなって誰も見ていなかったら。そう考えると、この運営は正気の沙汰ではないと私には思えます。 

 

当たり前に考えて、教職員の勤務時間前に子どもが学校に到着するということ自体があり得ないことです。私はこの状態を行政が放置しておくことは極めて望ましくないと思います。

子どもの登校時間を遅らせなれないならば、中央教育審議会の中で委員の妹尾昌俊さんが「朝の見守りスタッフ」を提案しているように、予算をつけて空白時間が出ない制度を作るべきです。

 

おそらく、適正な運用になった場合、教職員には朝「子どもたちがいない」状況が生まれます。例えば、教職員の勤務開始時刻を8時05分とし児童・生徒の登校時刻を8時20〜30分にした場合、朝に15分程の授業準備等の時間が発生します。これだけで月5時間程度の時間外勤務の縮減が期待できます。

朝の読書や朝の会を縮減し、できるだけスムーズに1時間目の授業に入る時間設定を工夫すれば、日課運営は十分に可能です。実際、地域や学校によっては児童・生徒の登校を8時30分までと設定しているところもあります

 

もう1つ言えば、子どもたちの下校時刻も早めればいいと思います。中学校は部活動があるため、別の議論が必要ですが、小学校では時間を切り詰めて、できるだけ早く下校させることで、時間が生まれます。

学校が子どもを長時間預かると、勤務時間のコストと安全管理のリスクのダブルの負荷がかかるのです。また子どもがいない時間をできるだけ長く取ることで、様々な準備を集中して行うことができます。

 

かつては学校は、学校ー家庭ー地域の「信頼関係」で成り立っていました。今は「法」が先行する時代です。それはとても残念なことですが、訴えられた学校が「信頼関係の下でやっていました」と言っても認められません。信頼関係はもちろん大切ですが、それはしっかりした土台=適法な条件整備の上で育まれるものだと思います。子どもの登校時間の適正化を望みます。

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